ハーバード大学を卒業、米国で法律家として活躍した後、東大に渡り日本に関する法社会学が専門の研究者となったダニエル・フット教授(法学政治学研究科)。日本に興味を持つようになった理由とは何か、東大が抱える国際性や多様性の問題はどのように対処されるべきか。数少ない外国出身の教授の目に映った東大像を描き出す。
(取材・翻訳 円光門、撮影 高橋祐貴)
──現在は法システムと日本社会の関係について研究している先生ですが、ハーバード大学では東アジア学を専攻していました。いつから東アジアや日本に興味を持ったのですか
私の父は米海軍日本語学校を修了後、第2次世界大戦中に日本語の通訳をしていました。日本語学校では、後に著名な日本文学者となったドナルド・キーンと同じクラスにいたそうです。小さい時から日本についてのニュースを父や、戦後記者として日本に留まった父の親友から聞かされていました。そういう意味で日本に親近感を感じていました。
──学部卒業後は、なぜハーバード・ロー・スクールに進学したのですか
『ジャパン・アズ・ナンバーワン』という本で後に有名になるエズラ・ヴォーゲルが私の学部時代の指導教官でした。彼は本当に熱心な教員で、はじめ私は大学院に進学し、ヴォ―ゲルのように日本社会の専門家になろうと考えていました。彼ならきっと私の計画を支持してくれたと思います。ところが私が4年生の時ヴォ―ゲルは研究で日本に行ってしまったので、代わりに卒業論文の指導を担当していたポスドク(博士研究員)に自分の計画を話してみました。ポスドクは日本学の研究職としての将来にとても悲観的で「博士号を取ったとしても、立派なポストにつけないだろう」と言ったのです。
さあ今後の人生をどうしようか、と悩みましたね。日本とのつながりは保ちたいと思っていました。ロー・スクールを卒業して、日本に関する業務を取り扱う法律事務所で働くことができるのならば、と考えたのです。
──ロー・スクール卒業後はいろいろな場で実務経験を積んでいます
地方裁判所と最高裁判所でロー・クラーク(裁判官付調査官)を務めました。ロー・スクール在学中に、日本法の専門家になるという、研究者への別の道があり得ることに気づきました。ロー・クラークの経歴はその後教授職を得るために有利に働くのです。その準備をするために日本法についてより勉強、研究する必要を感じ、フルブライト奨学金研究生として東大に留学しました。実務経験を得る必要性も感じたので、日産自動車法規部やニューヨークの法律事務所で働き、その後ワシントン大学で職を得ることができました。後日東大に客員研究員として2度招かれ、00年に専任教授として就任しました。
──今年文部科学省が発表した大学無償化政策の要件に、実務経験のある教員による授業が一定数を占めていることが記されています。近年の高等教育における、実用性を重視する風潮をどう評価しますか
法学の教員としては、複雑な心境です。日本の法科大学院では実務家教員と研究者教員という区別があって、後者のほとんどは実務経験を持たず、法実務と乖離(かいり)しています。対して米国のロー・スクールでは、研究者教員でも9割方は実務経験があります。理論の専門家であっても、実際の現場で法律がどのように運用され、政策がどのように決定されるのか知るべきだと思いますし、そういう意味で私は実務経験の価値を強く信じています。
しかし同時に、古典や文学、哲学や倫理の知識といった人文学の幅広い学識を持つことも重要です。他分野の知識を持ち合わせることで、事象を多角的にとらえて問題の核心を見極め、社会の人道的な側面に敏感であり続けることができるのです。
ハーバード大学では、私のクラスメイトに世界的なチェリストであるヨーヨー・マがいました。大学入学前からすでに世界中で公演をしていた彼は、音楽院に入る必要はなかったわけですね。いろいろな思想に触れて視野を広げたかったからハーバードに来たのだと、彼は言っていました。現在に至るまで、彼は新しいことに挑戦し続け、様々な活動を行っています。最近の例として、彼は今年の4月に米国とメキシコの国境沿いでコンサートを開くことで、両国の境界線に壁を建てようとするトランプ米大統領を批判するメッセージを発信したと聞いています。こうした素晴らしい活動を世界中で展開できるのは、ハーバードで培った幅広い視野のたまものでしょう。
つまり私は、実務教育は確かに重要だと考える一方で、実践的教育が重視されすぎてしまうことで人文学や教養教育が軽視され、総合的でバランスの取れた人材が育たないのではないかと恐れているのです。
──外国出身の教員という立場から見て、現在東大はどのような課題に直面していると思いますか
東大は国際性、学際性、多様性の三つにより一層取り組む必要があると考えます。三つとも、ここ十年で随分と改善されましたが、まだ課題は山積みです。まず国際性に関しては、留学することはもちろん外国の理解を高めるために重要ですが、私自身の経験から言えば、母国の理解を高めるにあたってもより重要だと考えます。外国で暮らし学ぶ経験は、それまで当たり前だと思っていた自国の側面について新たな発見をするきっかけになるからです。なので、近年東大が学生を積極的に海外に送り出そうとしていることは大変喜ばしいことです。ただ現状では、留学から帰ってきた学生たちがその経験を他の学生と共有できるような場が少ないと思います。留学説明会などで発表の場はありますが、聞き手はあくまで留学に興味がある人たちだけ。学生が自身の経験を発信する機会がより多くなるべきです。
次に学際性ですが、東大では前期教養課程で学生がいろいろな学問分野に触れる機会があります。ですが、研究に関しては未だ分野間の垣根は高いと感じます。法学部の中でさえ、民法や労働法などを専門とする教員の集まりはあっても、多様な分野出身の法学や政治学の学者が集う機会は少ないです。法学部と経済学部が共同で携わる公共政策大学院が設立され好評を得ていたり、法学部を含めて多くの学部にまたがるグローバルリーダー育成プログラムが設立されるなど、最近は学際性を意識した取り組みが見られますが、教員や学生の手による学際的な研究や学習の場がより増えてほしいと思います。
──多様性に関しては、性別や国籍の多様性を増やす努力は、東大内でもなされていると思いますが
国籍に関しては、PEAK(教養学部英語コース)など外国出身の学生に向けたプログラムの登場によって、私が初めて東大に留学した80年代初頭に比べはるかに多様性があります。ジェンダーに関しても、東大が真剣に多様性を高めようとしていることは確かです。しかし女性が学部生全体で20パーセント、教員の中では10パーセント以下しか未だに占めていないことには落胆しています。
さらに私が懸念しているのは、教育プロセスそれ自体における多様性の意義に目が向けられていないことです。例えば、東大を含む日本の法科大学院は多様性を確保するため、社会人や法学部以外の卒業生を受け入れることが求められていました(ジェンダーへの言及はありませんでしたが)。経済学や工学、医学の教育を受けた弁護士といったように、法曹の中で経歴の多様性があることは重要だと当時も認識されていました。しかしそのような多様性が教室で十分生かされているかは甚だ疑問なわけです。日米両国で教えた私の経験から言えば、多様な学生の集団があることは、同じ問題を異なる観点から考察することを可能にし、学習環境をより豊かにします。法学の授業であれば、ある法律や判例が女性やマイノリティー、さらには事業革新といったものに対してどのような影響を持つのか、各々が持つアイデンティティーや経験を基に問題を考え、他の学生と共有する。こうして初めて学生の多様性が、学びのプロセスの中で意味を持つのです。そのためにはもちろん、一方向的な講義だけではなく、生徒と教員が、また生徒同士が対話できるような授業が必要です。
──東大法学部は大教室での一方向的な授業が多いことが学生の間でも問題になっています。しかし、判例を基に教員が学生に質問を投げ掛けて考えさせる対話型授業は、判例が司法の判断基準の中心となる米国などで意味があるのであって、判例より体系的な法典に基づいて判断する日本には適さない教育法だと考える人もいますが
日本人の多くはマイケル・サンデルが「正義」について講義する放送番組を観たことがあるでしょう。サンデルは数百人で埋まった大講堂の中で、刺激的で双方向的な議論を学生と展開するわけですが、彼は本当に例外なのです。米国でも200人かそれ以上の学生がいるクラスで対話型の授業を効果的に行うことのできる教授はほとんどいません。
それはそれとして、対話型の授業が日本の法典に基づく法システムには適さないとする考え方には、私は断固として反対です。米国の法学教育で行われる対話型授業は、ソクラティック・メソッドと呼ばれていますが、そもそも哲学者のソクラテスは判例のことなど話していたわけではないのです。あれは思考を深めるための方法であって、どんな題材を扱うかは本質的な問題ではありません。サンデルが彼の「正義」の授業でよく示しているように、このメソッドは概念や理論、哲学的な議論を考察するのにとても有効ですし、法典の条文の意味合いや制定法の解釈を考える際にも非常に効果的だと思います。教員が学生と問答を繰り返すことで、学生はその問題の全ての側面や影響を考えてこなかったことに気付かされるのであり、この濃密な分析プロセスにおいて、学生は推論の技法を磨き、その技法を色々な場面で応用する能力を養うことができるのです。事象の隠された側面について学生が自分自身で考えられるよう導くことで、知性の自立と主体的に探究する力を養うことが、対話型授業の本質だと思います。
──次世代の若者に望むことは
私が以前教壇に立っていたワシントン大学にはQuestion the Answerというスローガンがあります。Answer the Question(問いに答えろ)ではなくQuestion the Answer(答えを問え)なのです。与えられたことをそのまま受け取るのではなく、常に問い続けろという意味です。
私が米国の最高裁判所で働いていた頃に、サーグッド・マーシャルという判事がいました。彼はアフリカ系アメリカ人で初めて最高裁の判事になった人で、公民権運動のリーダーでもありました。米国の最高裁判所における議論というのはとても活発で、弁護士に次から次へと質問をぶつける判事などいるわけですが、それと対照的に、マーシャル判事は口頭弁論で多くの質問をしませんでした。しかし彼が時々したのは「しかしそれでいいんですか?」(But is it right?)という質問でした。弁護士が法令上、憲法上の権利について極めて法的な解釈を主張すると、マーシャル判事は低くてうなるような声で「しかしそれでいいんですか。本当にそれでいいんですか、代理人よ?」と聞くのです。つまり彼が言わんとしていたのは、その議論が解釈論として成り立つのかではなく、道徳的に正しいのか考えるべきだということでした。「それは適切なのですか?公平なのですか?あなたはこの法律の限定的な解釈を提示していますが、我々が考えるべきはその解釈が現実問題として社会にもたらす影響なのでは?」と。
私はそんな彼の姿勢に大変感銘を受けました。「現状はこういうものだから仕方がない」で終わらせるのではなく、現状の背後にあるものを見極めて「しかしそれでいいんですか?」と問い続ける。このような姿勢を私はみなさんに身に付けてほしいと思いますね。
(取材は英語で行われました。下記リンクに英語本文も掲載しています)
Interview with Prof. Daniel Foote: Think Critically and Never Stop Inquiring
ダニエル・フット教授(法学政治学研究科)
76年ハーバード・カレッジ、81年ハーバード・ロー・スクール卒業。法務博士。ワシントン大学教授などを経て、00年より現職。主な著書に『裁判と社会――司法の「常識」再考』(NTT出版)など。
この記事は8月7日、8日に本郷キャンパスで配布された『オープンキャンパス特集号』に掲載された記事を加筆修正したものです。『オープンキャンパス特集号』は上記リンクより随時閲覧することができます。