時は幕末安政——『陽だまりの樹』は2人の若者、藩士・伊武谷万二郎と医者・手塚良庵を主軸に据え、開国後の社会の混乱、政治的闘争、新旧の勢力のぶつかり合いを描いた作品だ。
万二郎は剣術に優れ、義理堅い性格。義を貫く姿勢は周りから信頼を置かれるが、不器用な性格が邪魔をし、最愛の女性との幸せも叶わない。対照的に良庵は好色なお調子者。一方で、人情に厚く、医者としての腕も確かで、やるときはやる人物として描かれる。一人の女性を接点に関わることとなった二人。性格も立ち位置も一見正反対の二人だが妙に馬が合い、以後お互いの人生に欠かせない存在となっていく。
安政は日本が開国した翌年、1855年に始まる。外からさまざまなものが流れ込み、かねてよりヒビが入り始めていた古い体制のもろさがより顕在化し始めた時代だ。陽だまりの中でぬくぬくと育ってきた江戸幕府という大樹。しかし、その実態は今にも崩れそうな白蟻や木喰い虫の巣だ。万二郎は「徳川幕府の最後の柱」となることを自らの使命としていく。のちに幕臣として抜擢され、幕府陸軍歩兵隊を育てるなど活躍するも、政治闘争に揉まれ幕府により一度ならず左遷される。しかし、最後まで義を貫き、彰義隊として戊辰戦争に参加。上野の地で果てるのが読者の知る彼の最期だ。
時代の波は良庵にも押し寄せる。開国とともに日本に入ってきたコレラが凄まじい速さで江戸にも広まり、良庵をはじめとする医者たちは見えない敵と格闘する。病原体に震撼する社会と人々の姿は、コロナ禍を生きる現在の我々とそう変わらない。
また、新旧の勢力の対立は、蘭方医と漢方に従事する奥医師との対立という構造を通しても描かれる。良庵らは幕府の奥医師と対立しながらも、西洋から入ってきた種痘を広めるために奮闘し、東大医学部の源流に当たるお玉ヶ池種痘所の設立に漕ぎつける。
作中には藤田東湖、橋本左内、西郷隆盛、福澤諭吉など歴史に名を残す人々が登場する。良庵自身、作者・手塚治虫の曽祖父に当たる実在する人物だ。一方で、万二郎の名は歴史書を調べても出てこない。
上野戦争の後、万二郎の死を告げにその母と良庵の元に西郷隆盛が現れる。西郷がお悔やみを告げると良庵が叫ぶ。「あんたは生き残り、万二郎は死んだんだ。それにあんたは勝てば官軍だ!歴史に名が残るだろ、たぶん […] 歴史にも描かれねえで死んでったりっぱな人間がゴマンと居るんだ……そんな人間を土台にした歴史に残るやつなど許せねえ」。『陽だまりの樹』は歴史には名を残さずに去っていった「居たかもしれない」人物の「あったかもしれない」物語だ。
【雲】