新入生たちが新たな学生生活に期待を膨らませ、駒場へとやって来るのはいつの時代も変わらない。 特にインターネットがなかった時代、東京大学新聞の記事を読みながら、東大での新生活に思いをはせた新入生たちは多かったのではないか。そこで、3000号という節目に当たり、これまで東京大学新聞が合格発表と入試を迎えた新入生に向けて、どのような記事を発信してきたのか、50〜90年代の紙面を調査した。そこから浮かび上がる学生生活の様子とともに振り返ってみよう。(構成・岡拓杜)
「食・住・職に悩む学生生活」 “乾いた学園 ”の苦悩
50年代、学生生活の苦悩を紹介した多くの記事が新入生を迎えた。「「目から鼻へ」抜けるといわれる東大学生も七割は「手から口へ」の階級出身である」と書くのは79号1面。月千円の下宿代に2.5〜3.4千円の食事代、2.5千円の雑費を払うと残るのもわずか。娯楽費は400円程度で「勉学費」の4割ほどだった。学費の主な出所がアルバイトの学生が16.5%の時代、「アルバイトは卒業の可否を決定する鍵」でもあった。
悩むのは試験も同様。325号3面のコラムには「郷里に帰えれば秀才」と見られ、期待を一身に背負って試験に向き合う地方出身学生の嘆きも取り上げられた。「悪い意味で個人主義」という駒場。「試験ノイローゼ」が原因で命を絶った学生もいた。一人で問題を抱え込んでしまうだけに、その「乾いた学園」との向き合い方が問題になっていた。
新入生へのアドバイスを書いた365号11面には、「“孤独病”の治療所」としてのサークル活動への参加や、余暇の利用方法として、クラス内でのコンパやピクニックでの友達づくりが勧められている。「学生を自宅に招いて酒を飲ませてくれる」担任の先生もいたようで、その場で「飲友」を得ることもあったという。ただ、頭の良い自分を意識するあまり、誰も「本当の姿を外に出さない」ために「駒場の友情にはとげがあった」と繰り返す学生も多い。「こんなふうにいきずまった時(原文ママ)」は、書物をひもとくのも一手だが「余暇の利用はまず友人(との交流)から(始めよう)」というのが、当時の記者からの助言だった。
「存在はすでに政治」 激動の東大と平穏な日常
60年代といえば、60年安保闘争に始まり68〜69年の東大紛争に至るまで、学生運動の盛り上がりを思い浮かべる人も多いだろう。それに呼応するように、新入生へのメッセージも例に漏れず政治・思想色の強い記事が多くなった。446号9面「新入生をむかえる」で、「人間回復への道」と題された教員からの寄稿が掲載されたのも一例だ。駒場での生活を特集した609号9面には、当時の学生の声を取り上げながら、自治会活動や学生運動の意義が強調されている。「我々が大学生であり日本という社会に住んでいる以上その存在そのものが“政治”だと思う」「運動に参加し、或いは組織に参加することによって、そしてそれを自分で決めたことによって自由を実践」することになる。50年代の孤高のエリート的な気風とは異なる、学生運動を通した結び付きやヒューマニズムへの志向がうかがえる。記者は最後に毛沢東の『実践論』を引用し「知識を得たければ現実を変革する実践」をと、新入生に訴えた。
とはいえ、生活が学生運動一色だったわけでもない。405号9面「駒場覚え書──その生活のすべて」には、当時の学生の遊びが紹介されている。東大前駅(現・駒場東大前駅)には雀荘4軒があり「授業のない学生や、自発的休講組でにぎわっている」。もちろん試験中は客が少なくなる。囲碁を趣味とする学生もいて駅周辺に1軒ある碁会所は「案外にぎわっている」。大半の学生は家庭教師のアルバイトで2〜3千円の定収入を得たようで、50年代から変わって平均生活水準も上昇。「現在のサークル活動の特色を一言でいえば社会科学系サークルの衰退といわゆる娯楽趣味サークルの隆盛」に象徴される「学園生活を楽しむ」風潮が強まっていた(510号11面)。
「70 年をどう生きるか」 東大紛争の余韻の中で
東大紛争直後の69年の入試が中止されて以来、2年ぶりの新入生を迎えることになった70年の825号9面には、三つの自治団体の代表者による寄稿が掲載された。バリケードやゲバ棒、火炎瓶といった過激なイメージとは異なる、学生運動の「正しい姿」とは何か。3人は東大紛争の経験を踏まえ、日本の民主主義のためには、教職員・学友と「政治的立場・思想信条の違いをこえて」「団結して闘い」大学の自治と学問の自由を守らなければならないという。彼らは安全保障条約が改正される70年を「激動の時代」と捉えた。「激動の時代であればあるほど大学時代に真剣に生き、一生の生きがいとなるもの、確信をもって主張できる世界観を築いていかなければならない」「勇気をもって新入生の諸君、闘いに参加してきてもらいたい」
その思いが届いたか、907号1面を飾ったのは「駒場、無期限ストに突入」。国立大学学費値上げ阻止を掲げたストライキが、全学批准投票で約7割の学生から支持を得て実施された。各クラスから8人に1人ずつ選ばれる代議員によって構成される非常設の最高議決機関である代議員大会(当時)では、スト中に入学した「新入生からも活発な発言」(914号3面)とあるぐらいだ。こうした「七十年の安保闘争をしのぐ、東大闘争以来の高まり」を見た学生運動も、70年代後半には下火になり、代議員大会不成立が続く。「講義と遊びとバイトに忙しすぎる」学生を前にして1202号7面での「自治活動に関心を」の声もむなしい。
912号10面にはデータを基に「東大生の日常生活」を分析・紹介する記事がある。旅は年2〜3回。中には探検旅行や無銭旅行に行く者も。通学時の服装としては「町のファッションが完璧に浸透しているようで、意識せずラフな服装をしている学生が目につく」。飲酒率と喫煙率も紹介されており、女性が共に約1割なのに対し「駒場男子」の飲酒率は「六割を超え駒場寮生の九割が毎夜(?)盃をあげ」「煙草の方は逆に本郷生の六割が“励行”しており煙害はあまねく全学部に広がっている」勉学はというと、進学振分け(進振り)の改善が懸案になっていた。4月に「点取り主義がモラルに影響」と1039号1面は伝える。人気学科への志望者の偏りが発生しており、74年の留年率は文理平均して27%で、理Ⅱに至っては40%に。東大の改革室による改善案では、第1志望がかなわなかった学生にも、定員の最低2割を、第2志望用の枠として確保するという現在の進学選択制度につながる枠組みが考案された。その他、人気の理学部に対応する「理Ⅳ」を設置するというユニークな案もあったようだ。
「合コン ウラ話」 新しいキャンパスライフ
80年代の新入生向け特集に決まって登場するのが「合コン」だ。1244号12面では「先輩と一緒に行ったら絶対に1年生は干される運命にある」のが合コンの鉄則だとアドバイス。「合コン。この甘美で、魅惑的な響き(中略)けしゴムを落として気をひくというような純情高校生的なきっかけは、なかなか通用しない」(1413号9面)。当時の学生生活は「合コン」一色だったのだろうか。
授業にきっちり出ているとも言えず「部活動、サークル活動も今一つ。自治会への関心は非常に低い」。学生はどこで何をしているのかを、教養学部生200人を対象に独自調査した1538号4面をひもとけば、漫然とした学生生活のありさまが見えてくる。授業への平均出席率は61%。出席の理由は「単位のため」「出席しなければいけないから」「何となく」と答えた学生が合計で57%で「大学は自立した、そして自立しようと努力する人間が互いに学ぶ所なのであるから、君達には(悲しいことだが)中学や高校の方がお似合いなのだ」との酷評ぶりだ。一方、学外では59%の学生がアルバイトをしているようで、収入の用途は、交友費、生活費、貯金・預金と並ぶ。50年代の「乾いた学園」から一転、能天気なキャンパス(外?)の様子が浮かんできそうだ。
87年は国立大学の試験日程が二つに分かれ、複数大学合格後に入学大学の選択が可能となったため、東大も合格者辞退を想定し「割増合格」を行ったが、予想以上に辞退者が少なく、200人以上の定員超過となった。後期課程への進学内定が取り消された人も200人を超え、1538号1面は「駒場は大爆発」だと報じる。当時の記者はこの事態を「人類学的に考察」したようで、シロネズミを用いた集団密度に関するカルーンの実験に基づけば、画一的・同時的な行動で2限後の食堂に学生群が集中すると予想した。
能天気な記事の裏側で当時、問題となっていたのが原理研問題。「原理研究会」による洗脳や暴力行為、スパイ活動など、大学の自治を破壊する行為が目立っていた。東大では当時キャンパス内にあった駒場寮の襲撃や学部交渉(教養学部の自治会が学部に対し行う交渉)のかく乱などが起こった。新入生には「君たち、原理を知っとるけ?」(1451号12面)「原理研にご用心」(1620号7面)といった特集記事で繰り返し注意喚起された。特に原理研との関係が強い「東大新報」は、その名前ゆえに東京大学新聞と間違われやすいが、全く無関係だ。
「パソコンやってみないかい?」 今につながる学生生活
91年には東大紛争で消えた全学卒業式も24年ぶりに復活した。「遠ざかる?“闘争”の日々」(1702号4面)の中で、現在の学生生活の原型が至るところに見られる。1744号1面、1746号2面、1747号3面と立て続けに取り上げられた新たなカリキュラム制度。前期課程教育の再編で①人文科学②社会科学③自然科学④外国語⑤体育──から成る「五科体制」が廃止され、現在につながる「基礎科目」「総合科目」「主題科目」の分類が登場した。修了要件以上の単位数の取得を促すため、現在の基本平均点(進学選択で用いられる成績)の算出方法もこの頃規定された。
今や学生生活の必需品となったパソコンも、96年に1917号3面で特集が組まれた。CPUやOSなど基礎用語から、パソコン選びに「マイクロソフトオフィス」の紹介まで始める前の予備知識が幅広く特集されている。当時はまだ新入生も先輩もカリキュラムやパソコンについては1年生だったのかもしれない。
当時の学生がどのようにコンピューターを利用していたかは1912号10面の記事に「(駒場にある情報教育棟の)自習室には連日多くの学生が詰め掛け、熱心に画面に向かう」とある。メールでレポートを出す者、LaTeX(文書清書システム)でレポートを仕上げる者もいる。中には描画機能、数式処理機能を用いて、シケプリ(試験対策用プリント)を作っている学生もいるという。ただ、ゲームは厳禁で「ときどき「ぷよぷよ」などをやっている学生を見かけるが、見つかるとアカウントを取り消されることもあるので、注意」とのこと。
駒場寮廃寮の決定も90年代だった。現在のキャンパスプラザから駒場図書館にかけての一帯には当時、駒場寮が建っていた。教養学部により廃寮が計画され、95年度の新入寮生募集をしないと告示するも1876号1面には「約50人が新たに入寮」の文字。96年3月31日で廃寮を決めた学部に対して、1914号1面には「駒場寮自治会入寮募集・在寮を継続」と抵抗の意思を見せたが「電気・ガスを突如停止」(1916号1面)と学部側も対抗した。キャンパスプラザ建設に向け、駒場寮の北端に位置する明寮の明け渡し仮処分が強制執行されたが非債務者ら「今なお3人が住み続ける」(1957号1面)という事態。最終的な明寮明け渡しは「学部オリエンテーション、サークルオリエンテーション当日ということもあり、駒場寮生の抵抗もあって駒場は一時騒然となった」(1958号1面)いずれも1面掲載とだけあって、注目度の高さがうかがえる。当時の新入生たちは、駒場最後の“闘争”の目撃者となった。駒場寮のないキャンパスが、さまざまな意味で今につながっている。