日本では大学を中心に文理の分断が問題になることがあり、文理融合という言葉を耳にすることも多い。科学技術の発展が著しい現代、科学技術と人間が共生するために、文理の両方の視点から物事を考えることがますます重要になると考えられる。後編の今回では、文理融合を実践しつつ研究の対象ともする戸矢理衣奈准教授(東大生産技術研究所)に、自身の経験やそれに基づいた文理の関わりについて話を聞いた。
(取材・山﨑聖乃)
課題解決を主眼に文理の接近を実感
━━文化/社会史を研究しようと思ったきっかけは
小さい頃から百人一首が大好きだったことをきっかけに文化史に興味を持ちました。一方で、高校の教科書などを読んでいると、近現代の女性史が女性参政権獲得の歴史という視点からのみ記述されていることが多く違和感を覚えることがありました。ファッションや恋愛など、日常的な人間の感性や美意識の歴史に重要性を見出しました。
━━歴史学で博士号を取得した後、独立行政法人経済産業研究所に就職。さらに起業を経て東大エグゼクティブ・マネジメント・プログラム(東大EMP)を受講し、その後生産技術研究所に着任しています
経済産業研究所は産官学の連携を重視し領域横断的な研究を掲げた独立行政法人で、以前からお世話になっていた、スタンフォード大学教授の故・青木昌彦先生が所長に就任されていました。青木先生はとてもパワフルな方で、経済学の分野で世界的にご活躍されるだけでなく、領域横断的展開によって新しいことを進めたいという思いを強く持っておられました。実際、青木先生の周りにはいろいろな分野の面白い人が集まっており、そこで自分が知り得る領域の限界の小ささを感じるとともに、突き抜けた才能の人たちが集まるとやはり新しくて面白いものができるなと実感したんです。質の良い横断的ネットワークの可能性を生かした活動を推進できるようになれたら、と思うようになりました。こうした経験もあり、15年ほど前に世界各地に在住する常勤職を離れた高い専門能力を持つ女性のネットワーク化などをはじめ、さまざまな事業を行う株式会社IRISを創業しました。
2008年に始まった東大EMPは、社会人の幹部候補生を対象にした文理を超えて東大の全領域を網羅的に学ぶ面白いプログラムだと前々から話を聞いていました。費用や時間の観点からちゅうちょしていましたが、今後も領域横断を掲げて研究や活動をするなら受講しないわけにはいかないと思い、一念発起して13年に受講しました。
もともと数学や物理に対して苦手意識が強かったのですが、東大EMPで課題解決を主眼として各分野の基礎の部分、核となる部分を学ぶことで壁が低くなりました。各分野の根本を突き詰めていくほど文理の領域が接近していくことが分かったことが最大の収穫でした。そもそも歴史をさかのぼって考えても、根本的には文理は分かれるものではないと思いますしね。レオナルド・ダ・ヴィンチが文系か理系かなんて誰も問題にしないでしょう? それに気付けたからこそ、今の生産技術研究所での仕事ができていると思います。
━━現在は生産技術研究所で、「文化をめぐる人文と工学の研究グループ」に所属しています。専門分野としている「人文知の工学への展開」の必要性は
工学のいろいろな領域で計測が万能の時代ではなくなってきています。これが快適なものが作れる数値だと判断しても実際作ってみると快適なものにはならないというように、製品開発の場面でも数字以上の発想が求められます。また、よく言われることですが、自動運転車の事故の問題のように科学技術の進展に伴って倫理や法の領域での議論が不可欠にもなっています。さらに、科学技術が誕生して以来それが予想外の使い方をされ、予想外の結果がもたらされたことは多々あります。そのような歴史を振り返りながらものづくりをしなければならないと思っている研究者はたくさんいます。他にも、芸術家が持つ先見性や美的感覚などから得られる知見もたくさんありますし、美的感覚と技術が本来は結び付いていると思います。そもそも人文学の持つ中長期的・俯瞰(ふかん)的な視点や、さまざまな領域と自由に結び付いてその基盤を強くする力を、他の分野にダイナミックに生かすことが大切だと思います。そこで生産技術研究所では私の専門を「応用人文学」と称しています。
「文理実」の視点で教員レベルの融合を
━━文理融合の推進には「文理実」の視点が重要だと論じています
東大EMPの経験から、文理融合は社会一般に通じる考え方というよりも大学内の事情が反映された考え方だと感じました。大学の研究では文理が分かれていますが、実務家にとっては、何か課題があればいろいろな分野の知識や経験を総動員して解決しようとするのが普通です。そのため、自分の専門とは違う分野に対しての心理的なハードルがずっと低いと思います。東大EMPの修了生と話しているとそのことを実感します。また自分の実務経験から、実務家は、言うだけではダメで基本的に実践して形にしないといけない。そうした意識を持つ実務家が介入したら、自然に文理融合も進むのではないかと強く思いました。19年より生産技術研究所の協力の下、学内外のさまざまな領域の第一線で活躍している講師を招き工学に関連するテーマを議論する「文化×工学研究会」を東大全学の教職員と東大EMP修了生にオープンにする形で実施してきました。実際に、実務家が入ることで思い掛けず物事が進むことが多くあります。
━━「文化×工学研究会」で印象に残っている回は
「人文系からの提言」と題して文系の先生方3人に来ていただいた回です。工学分野の先生方は、文系の先生方の持っている工学のイメージがステレオタイプ化されていたことに驚いていました。工学は建築からバイオエンジニアリングまで実に幅広い分野を扱っていて、しかも人間の生活を扱う領域がとても多いのです。にもかかわらず、そこが工学のイメージから抜けてしまっている。では工学とは一体何かと工学分野の先生方が考え始めると、今まで根本的なところの議論を行う機会が十分ではなかったのではないかという結論に至りました。先端にある研究者同士が領域を超えて、腹を割ってじっくり話せる、いわば「突端会談」の場を、今後も設けるべきだと共感が広がりました。
━━文理融合のために大学に求められることは
友人の「教員ができていないのに、学生に文理融合と言ってもできるわけないよね」という言葉がとても印象深く、本当にその通りだと感じます。教員レベルでの文理融合が進む環境を整えることも必須だと思います。そもそも文理融合以前に、文系領域内でも分野横断が進んでいるとは言い難いのが現状だと思います。
一方で人文系、特に歴史や文化に関連する領域では学部から大学院に進学し、そのまま研究者になる人が大半で、同質性が高いことが特徴です。中には実務経験を経てから大学に戻る人もいますが、私の知っている限りでは20代で数年だけ実務に就いて戻るパターンが多いため、一定程度外部とのネットワークを築いて戻る、ということは少ないと思います。今の文系領域には私のようなキャリアの人はほとんどおらず、実務家との連携と言ってもピンとこない場合が多いだろうと思います。
ではどうすれば領域横断が進むのでしょうか。現在、理系の領域から文系的な発想に対するニーズが高まっています。また理系領域では、個人のキャリアの面でも学外で一定のキャリアを積んで大学に戻られる方も少なからずおられます。加えて医工連携や理工連携など異分野間の連携、そして産学連携も進んでおり、この三つのレベルで考えても領域横断が一定程度進んでいます。このため一般的には理系からアプローチをする方が進めやすいと思います。また、先ほど話した文理実の視点を持った上で、例えばデザインやアートなど文理の中間になり、連携を推進しやすい重点領域や、文理融合を推進するプロデューサーの役割を担う中間組織を構えることによって融合を推進する場を作っていくべきです。
もう一つ自分の学生時代も振り返って思うことは、大学は入り口だけでなく出口の整備もするべきだということです。私が学生の頃はちょうど学際研究の必要性が叫ばれていました。しかし、学際研究を行ってもいざ就職しようとすると、就職のポストは昔からある分野のものばかりで適切なポストが足りていませんでした。そもそも、大学院重点化で院生の数は増えてもポストがない。社会人博士歓迎と言いつつも、実際に博士号を取得してもその後、適切な仕事がないというケースがあります。新しい挑戦をした人や人文系の博士を生かす場を作ったり、支援したりすることが必要です。
━━文理の両分野を学ぶことができる、前期教養課程の学生にメッセージを
前期教養課程に限らず学生時代に専門を深めつつも、バランス良く広い視点を持つことが大切だと思います。東大在学中ほどいろいろな分野を学べる時期はありません。もっと勉強しておけば良かった、授業に出れば良かったと私の周りでもみんな言っています(笑)。学生時代はあまり人気がなかった記憶のある東洋思想なども東大EMPでは大人気です。文理は本来区別があるものではないので、自分が面白いと思ったことをどんどん楽しんで学んでください。