パタゴニアの野兎――ランズマン回想録(上・下)
クロード・ランズマン 著
中原毅志 訳
人文書院 2016年 各3456円
ISBN978-4409030912
クロード・ランズマンといえば、『ショアー』(一九八五年)の監督として有名だろう。それどころか、彼についてそれ以上のことを知っている人はそれほどいないのではないか。だが、彼の口述筆記によって物された本書を紐解くと、ナチスによる占領期のフランスでのレジスタンス活動を始めとして、大小さまざまな出来事に満ちた半生であることが分かる。大きな出来事については帯文などで紹介されているので、細々としたエピソードをいくつか紹介すると――父親とそのパートナーとの情事を弟と覗き見た日々(第四章)、金欠を補うに足る口説き文句を心得ていたこと(第五章)、哲学の小論文で、級友のドゥルーズやル・ゴフを抑えて一番になったこと(第八章)、哲学書の万引き常習犯だったが、ついに危機的状況を迎えてしまったこと(第八章)、等々が語られている。口述筆記だからか、思いつくままに自在に時系列を前後させつつ、多彩で華々しい登場人物の名とともに大胆に語られる種々のエピソードは、その大小を問わず、読む者を惹きつける。
以下では、多岐にわたる話題のなかでも、イメージ(写真や絵画)に関する部分について、わずかながら触れておきたい。第一章では、処刑場に送られるモロッコの将校の写真を評して、「この一瞬に、人生の全体が立ち現われ、読みとることができる」と語り、これを、カルティエ=ブレッソンの言葉を借りて「決定的瞬間」と呼んでいる。また、ゴヤの『五月三日の虐殺』については、「この見事な絵はすべてを語る。人はそこにすべてを読み、すべてを見る」と評しているのだが、そもそも一つのイメージが、出来事や人生の「全体」ないし「すべて」を表わすことなど可能なのだろうか。もちろん、単なる誇張だと片付けるのはたやすい。しかし、一つのイメージが「すべて」を表現しうるか否かという問題は、ホロコーストに関しては重大なものとなる。ランズマンにとって「決定的瞬間」を捉えた写真は「すべて」を表わしうるものであり、映画『ショアー』の目的が、ホロコーストにおけるそのような写真の不在を埋め合わせること、つまり、「ガス室の死という、存在しない画像を代替すること」(第十八章)であるならば、彼が現存する視覚資料を重視しなかったのは当然とも言えよう。そして、これと対立するのがディディ=ユベルマンの立場である。彼らの論争の詳細については、今号の特集で取り上げた『イメージ、それでもなお』をぜひとも参照されたい。
※この記事は「ほん」からの転載です。「ほん」は東大生協が発行する書評誌で、さまざまな分野を研究する東大大学院生たちが編集委員会として執筆・編集を行っています。年5回発行、東大書籍部等で無料配布中。
2016年8月27日 06:00 【写真修正】 画像を差し替えました。
【いま東大生が「ほんき」に読むべき「ほん」】