『東大美女図鑑』。その名前を聞いて、あなたはどんな印象を持つだろうか。読んでみたい? なんだか嫌だ? 炎上していそう? いずれにせよ「東大」「美女」「図鑑」という単語の組み合わせに無関心でいられない人は多いだろう。
東大美女図鑑編集部から東京大学新聞社に届いた記事掲載依頼の企画書にはこんな文章があった。「世論、団体の性質等を勘案し、『東大美女図鑑』の看板を下ろす、あるいは廃刊するという選択を常に身近においています。次号で『完結』を迎える可能性も十分にあります」。その真意は一体どこにあるのか。本記事では、東大新聞の学生記者と東大美女図鑑編集部の学生、さらに瀬地山角教授(総合文化研究科)も加わって、発行の理念や内容の妥当性などを語り合った取材模様をお伝えする。東大美女図鑑について、そして東大とジェンダーにまつわる全てのトピックについて高校生や東大生一人一人が考える上で必読の内容だ。(取材・鈴木茉衣、撮影・中野快紀)
※取材は2021年10月末に行われました。記事中で言及される情報は当時のものです。
望月花妃(もちづき・はなき)さん(法・4年) 『東大美女図鑑 vol.14』編集長
荒木英佳(あらき・えいか)さん(文・3年) 『東大美女図鑑』広報担当
六川雅英(ろくがわ・もとひで)さん(養・3年) 『東大美女図鑑』広報担当
瀬地山角(せちやま・かく)教授(総合文化研究科)
鈴木茉衣 東京大学新聞記者
中野快紀 東京大学新聞記者(撮影担当)
「かわいいの多様性」を伝えた最新号vol. 14
鈴木 団体の歴史や理念、その変遷について教えてください。
望月 2011年度入学の文Ⅲ26組が中心となって制作し、2014年の第87回五月祭で販売が開始されました。当初の目的は、東大の女子学生の「賢いだけ」「おしゃれじゃない」「結婚しづらい」などのイメージと対置する形で「美しく知的な東大女子」の姿を発信する、というものでした。現在までに16の冊子を制作、発行してきました。ジェンダー平等やルッキズムなどの観点からの批判にさらされてきた面もあります。例えば16年には、東大美女図鑑のモデルの学生が海外旅行のフライトで隣に座って話をしてくれる、というHISとのコラボレーション企画がインターネット上でいわゆる「炎上」状態になったことがあります。
ロゴは当初丸文字でハートのマークが付いていたりと、いわゆる「偏ったかわいい像」を感じさせるものでしたが、2018年にデザイナーがフォントから考え直し、キーワードとして「無色透明」を使い始めるなどのリブランディングを行いました。
かぎかっこ付きの「東大女子」のリアルではなく、東大女子のかぎかっこ付きの「リアル」を発信する、という現在の理念やスタンスがそこで明確になったと思います。「東大女子」という概念のリアルではなく、女子高校生にとってはロールモデルともなりうるような東大の女子学生一人一人のリアルをいくつか提示することで、読者が立体的に東大女子について考えてくれたらいいな、と。誌面に掲載されているモデル一人一人の姿を足し算したものが「東大女子」のリアルだ、とは考えていません。
当初から「東大女子」のイメージに対する問題意識と課題解決、という志は共通していますが、現在の理念と創刊当初の理念では異なる部分も大きいです。vol. 1から掲げている「かしこいだけじゃない、かわいいだけじゃない」という言葉には、「かしこい」「かわいい」という言葉が多様な意味を持つことが存在肯定につながってほしいという思いがあります。これは私が編集長を務めたvol. 14で書いたことですが、東大美女図鑑が使用する「かしこい」「かわいい」という言葉が意味するのは、例えばセンター試験で高得点が取れるとか、顔が黄金比に近いとか、細くて肌が白いというようなことではありません。
鈴木 「かわいい」という言葉が画一的な外見の基準のみを指した言葉ではなかったとしても「かわいい」という概念自体に距離を感じてしまう、という人もいるのではないかと思いますが、発信していく上でそのような層に届けたいこと、意識していることなどはありますか。
六川 世間的に流布する「かわいい」が自分とは遠い言葉だと思う時、それは「かわいい」の要件や基準というものがあって、それを自分が満たしていない、と客観的に感じているということだと思うんです。そうではなくて、もっと主体的な表現としての「かわいい」を重視していて、だからページを作る際に被写体の希望を汲み取ることをしています。
望月 一般的に「美しい」が客観的で「かわいい」が主観的だ、というイメージが強いと思うので、言葉としては「美しい」より「かわいい」を積極的に打ち出しています。「私はそう思う」というニュアンスを意識して「かわいい」を選んでいるということかなと思います。「かわいい」という概念を存在肯定、愛着、あるいはキュンとするもの、などと広く捉えているとも言えます。実はモデルさんの中にも、正直自分の容姿はそんなに好きじゃないけど、かわいくなろうと努力している、という方や、ファッションで自己表現をするのが好きで、それで誰かに勇気を与えられるなら協力したい、という方もいます。
荒木 私は最初にモデルとして参加し、その後編集にも携わるようになったのですが、モデルとして東大美女図鑑で一番魅力的だと思っている点は、モデルを全員平等に扱って、見せ方も特定の方向性に揃えるのではなく、その人のありのままを出すことを意識している点です。女性のモデルは主に男性にまなざされ、客体化される立場だという言説がありますが、私はモデルとしては客体化されているとは感じていません。見られる側でありながら自分の主体性、個性を出すことが可能になっているのは、一人一人に合わせたテーマ・モチーフを考え、撮影場所を選定するといった努力を編集部が行っているからだと思います。
望月 「かわいくなくて頭だけ」を打破しようとしていたのが初期で、そもそも「かしこさ」や「かわいさ」はものすごく多様で、広がりのあるものなんだと表現しようとしたのがvol. 10以降なんです。最終的な理想は「東大女子」という言葉だけでは何もイメージできないくらいの状況だと私は思います。だから「『かわいくないと思われているけどかしこくてかわいいんだよ』と伝えたいというよりは、主観的な「かわいさ」、言い換えれば「かわいいの多様性」を表現しようとしているつもりです。
鈴木 「主観的なかわいい」を重視するというのは、究極的には例えば「みんなかわいい」というような方向での自己肯定を後押ししていくということを指すんでしょうか。
望月 「みんなかわいい」というより「どんな人にでも魅力がある、そういう面がある」が、こちらがモデルに対して思っていて、読者に伝えたいことと近いかもしれないです。かわいいとか美しいという言葉や概念が時に抑圧を生んでしまうこと、具体的には東大美女図鑑という名称から「美しい東大女子もいるのに、私はそうじゃない」と感じてしまう人がいる可能性があることについては、東大美女図鑑の伝えたい「かわいいの多様性」が「美女」という名称によって阻まれてしまっている例だと思うんですね。でも編集部からモデル一人一人に対しては、あなたにはあなたの美しさやかしこさがあって、その魅力を伝えたい、と考えていますし、そういう想いが読者にも届けばと思っています。
そしてどんな人にも、魅力や「かわいい」面だけじゃなくて、人に見せたくない挫折体験などの「かわいくない」面もありますよね。vol. 13のテーマは「かわいいは虹色」で、モデル一人に対して一色ずつテーマカラーを当てていたんですけど、私は一人一色という発想からは矛盾がない綺麗な個人という印象を受けてしまって。一人の人間の中にそれぞれいろいろな面や矛盾があるじゃないですか。だからvol. 14はvol. 13のアンチテーゼなんです。テーマは「箱」です。箱ってある方向から見て、全ての面が見えるわけじゃないですよね。東大美女図鑑で描かれているモデルの姿が全てではないと伝えたかったんです。
『東大美女図鑑』の名を冠したままでいい?
鈴木 「かわいいの多様性」という概念については分かりました。ただ、モデルの方は皆さん、主観がどうであれ客観的にはかわいい、美しいと評価されることが多いであろう方だと思うんです。だからその点について矛盾などを感じたことなどはないのかが気になりました。関連して、モデルを選んだり声を掛けたりする段階でどのような判断を行っているのかもお聞かせください。
望月 いわゆる容姿のいい人を出すことの矛盾はもちろん認識しています。誰でも魅力的な側面を持っているからこそ、写真映えするという観点から見た目がかわいいなと思う人に協力をお願いしてきたのだと思います。ただ現在は見た目だけではなく、学年や所属、サークルなどの活動も事前に考慮して、既にご協力いただいている他のモデルさんとの偏りがないようにしています。例えば容姿順で並べて上の方から取ってくる、というような、容姿だけを基準にした選び方ではないということです。
荒木 批判を浴びやすい「美女」という名称は、あくまで創刊当初に打ち砕きたいスティグマであった「東大女子であることとかわいさは両立し得ない」へ対抗するものとして付けられたものだと思います。でも、リブランディング段階で加わった「ロールモデル」やvol. 13〜14から意識され始めた「かわいさの多様性」などと、キーワードがどんどん増えているように、時がたつにつれて名称・理念・内実が乖離している。それが原因で誤解が生まれているのかなと。
編集部員内でも現在vol. 15の制作についてや、今後名称をどうしていくのかについてなどを議論しているところですが、その中で方向性の違いが出てしまうことがあるのもこの乖離が原因にあると思っています。それが難しいところですし、同時にとても面白いことでもあります。
中野 美女という言葉は文字通り捉えると「美しい女」なので、先ほどのお話に従うと客観的な表現ですよね。その乖離に対し、例えば名称を変えるという選択も検討可能性があるのかなと感じますが。
望月 はい、まさにその検討をした結果がvol. 14でした。東大美女図鑑という名前が問題なんじゃないかという声は内部からも外部からもありました。じゃあvol. 14の名称を変えるか、と検討したのですが、出版物を作るという本当にものすごく大変な作業に携わる中で、社会の流れが変わって問題だから、というだけでこれまで掲げてきた看板を下ろすことは、出版物としての歴史にも現在の読者の方にも失礼なことだと思いました。だから私は、葛藤や矛盾を抱えた状態でvol. 14をつくるということを選びました。
でも、葛藤や矛盾を残したままでいいのかといえばそれはもちろん違うと思って。それでvol. 14では、本誌に東大美女図鑑という名称を記載しないことにしました。紙の方には何も書かず、付属の透明なカバーにだけ東大美女図鑑と入れました。一人一人の読者の方に、東大美女図鑑という名称をふさわしいと判断したのならばカバーをつけて、しなかったのならばカバーを外して、保管をお願いする旨の紙を添えて販売しました。
名称が問題だと分かっているけれど、それが理念や内実とどのように乖離しているかが明確につかめていなくて、変える上でもその方向性が見えないと思っているんです。だから、変えるためという意味でも読者の方の反応を見たくて、このような形にしました。
(後編に続く)