近代以降の清酒酵母の親「6号酵母」の発祥蔵である秋田市の蔵元新政酒造。8代目の佐藤祐輔さんは東大文学部を卒業した後、記者、ジャーナリストを経て実家を継いだという異色の経歴の持ち主だ。全国でも数社しか採用してない木桶を使った酒造りを復活させるなど、手のかかる伝統技術を継承。6号酵母の持つ特性を生かした「No.6」など従来の日本酒とは一線を画す味わいを持つ酒を造っている。佐藤さんに学生時代の経験や日本酒造りで大切にしている価値観を聞いた。(取材・安部道裕)
音楽、文学、旅……。酒には目もくれず
──秋田ではどのように幼少期を過ごしましたか
物心付いた頃には会社から少し離れたところで暮らしていたので、つくり酒屋という家業に関しての親近感はなく、酒造りの現場などを全く知らずに育ちました。
関心事といえば芸術で、絵が好きでした。内向的な子どもだったんです。中学から高校にかけては音楽も好きになりました。表現することが好きでしたね。
──現役で明治大学に進学していますが、進路はどのように決めたのですか
高2ぐらいから音楽に没頭して、暇さえあれば音楽を聴いて楽器を弾く生活をしていました。特にロックをよく聴いていたので「学校なんてクソくらえ」と思ってもいました(笑)。なのでひどい成績で。高3でも「大学なんかどうでもいい」と思っていたのですが、進学しないと地元に残ることになってしまうので嫌だなと思って勉強を始めました。でも先生からは見放されていて、受験の段取りが分かっていなかったので気付いたときにはセンター試験(当時)の出願が終わっていたんです。それで必然的に志望が私立の大学に絞られて、片っ端から受けたところ奇跡的に明治大学と法政大学に受かりました。「何かの間違いじゃないか」と思いながら、明治大学の商学部に進学しました。
──上京1年目はどうでしたか
相変わらず音楽をやっていましたが、音楽以外にも文学が好きで、1日に1冊は本を読んでいました。商学部だったので大学では経済学と経営学の勉強をするのですが、全く面白くなかったですね。そんな中で、唯一興味があったのはマルクス経済学でした。
──なぜマルクス経済学には興味があったのでしょうか
マルクスの『資本論』は革命の本でありながら生き方のバイブルでもあって、単なる経済学の本を超えた文学だと思えたからです。プロレタリアートである民衆が支配層から搾取されずにどう自分の生活を守るのか、というのはロックに通じるところもあると思います。
──その後明治大学を1年で辞め、東大に入学しました
私は幼い頃から注意欠陥・多動性障害があるようで、忘れ物が多かったり、興味が持てない題材に関しては全く集中できなかったりしていました。そんな中、明治大学1年生の時に読んだのがダニエル・キイスの『アルジャーノンに花束を』で、それにいたく感動してしまって。それを読んで心理学って面白いなと思ったんですよね。心理学者になろうと決心し、明治大学を辞めて、もう一度受験勉強を始めました。心理学科のある私立大学をいろいろ受けていたのですが、東大も記念にと思って後期試験(当時)を受けてみると論文を書く試験で、自分にとっては簡単でした。そして合格し、東大に入学しました。
──前期教養課程時代について教えてください
心理学の授業を多く受講していたのですが、つまらなかったんです(笑)。私がやりたかったのは、一人の人間の心理を深く分析することでしたが、そういった授業はあまりなくて。社会心理などの、調査で得た大量のデータから人間の心理状態を推測する手法は、結局統計学だと思えてしまいました。そこで「俺は心理学ではなくてダニエル・キイスの本が好きだったのだな」と気付いたんです。
あとは周りの頭の切れる同級生を見て「普通に就職してこの人たちと戦ったら窓際族になるな」と思いました。それで周りに勝てることを探した結果、文章や文芸に関する知識や教養だったら絶対に負けないと思いました。文学も文章を書くことも好きだったので、天職ともいえる作家になろうと決め、進学振分け(当時)で文学部の英語英米文学専修に進学しました。
──後期課程での生活はどうでしたか
あまり大学に行っていませんでした(笑)。というのは海外旅行にハマってしまい、最低限の荷物だけ持って東南アジアやインド、南米を数カ月旅することを頻繁にしていました。放浪は文学的に大きなテーマの一つでもあるので、作家になるための人生経験として世界中をバックパックしていました。後期課程の2年間はひたすら旅行をして本を読んでいましたね。
──印象に残っている国はどこですか
インドですね。インドでの旅はもはや「苦行」ともいえて、人生の危機的な状況に何度も直面しました。コレラにかかったり、旅行費用を騙し取られたり。日本とは完全な異世界で、貴重な経験でした。その時に日本というものを客観視できた気がします。異文化に触れたからこそ自分の文化が認識できました。
実家を継ぐまでは「回り道だらけ」
──卒業後について教えてください
作家になるための人生経験だと考え就活もしていて、NHKのディレクター職の内定をもらっていました。しかし「このまま入ったら作家になるのが遅れる」と考えて、配属が決まる前には辞めてしまいました。そこからは食うためにいろいろな仕事をしましたね。
生と死は文学において最も重要なテーマですが、その文学の究極のコアを体験できると思い葬儀屋に入ったこともあります。しかし文学的な何かが見出せたわけではなかったですね。むしろ、決してドラマチックなわけでもないことこそが真の文学だと思いました。
郵便の配達員をしながら創作をしていたチャールズ・ブコウスキーに憧れて池袋の郵便局に勤めたこともありました。夜の配達をしていたのですが、裁判所からの出頭命令を配達したりと、かなり危なかったです(笑)。郵便局の中でも、すぐにけんかになってナイフが出たりと『池袋ウエストゲートパーク』というテレビドラマみたいになっていました。「こんな世界あるんだ」と思いましたね。
──その後編集者・ライターになっています
ご縁から出版社で編集の仕事をすることになりました。1年ほど続けた後、朝日新聞の編集委員や鎌倉市長を務めた竹内謙さんが、インターネットの新聞メディアを立ち上げると聞いて、そこの編集に移りました。しかし、そこで私が取材をして書いた記事は、市民記者による堅めのインターネット新聞に載せるには到底出せないようなものが多くて(笑)。新聞には載せられなかったのですが、周りから好評ではあったので、まとめて本にして出版しました。
自分で出版したのと同時にノンフィクションのライターとして独立して、週刊朝日や週刊SPA!などで書くようになりました。そこで書きためた記事もまとめて出版したりしましたね。
──フィクションは書き続けていたのですか
実録マンガの原作やラジオ番組の台本を書くなどフィクションを書くことも続けてはいましたが、ノンフィクションの方がメインでしたね。机上で思考を巡らせるフィクションより、いろいろなところに取材に出向いて慌ただしく仕事をするノンフィクションの方が自分の性に合っていました。
──紆余(うよ)曲折の末、現在は新政酒造の8代目として実家を継いでいます
同業者のジャーナリストが集まる飲み会に参加したときに飲んだ磯自慢という日本酒に衝撃を受けたことが転機になりました。それまで実家が酒蔵であるにもかかわらず日本酒は好きではなかったのですが、磯自慢は本当においしかったんです。日本酒が売れなくなっている現状を知っていたので「こんなにおいしいものが世の人に知られていないのは問題だな」と思い、日本酒についての記事を書こうと考えていました。そうして日本酒について調べていたのですが、実際の酒造りの細かなところが本では分からなかったんです。私は徹底的に調べないと気が済まない性分だったので、父親に頼んで酒類総合研究所の研修に行かせてもらいました。
また、当時の秋田は大量生産で安くて個性をあまり感じない酒を造っていて、実家の酒もその内の一つという現状がありました。酒造りをかじってみると面白かったのもあり、一度実家に戻っておいしい酒を造って内部から発信しても良いなと思い、実家に戻りました。
【後編に続く】