男女雇用機会均等法の制定に尽力し、「均等法の母」と呼ばれている赤松良子さん。1953年に東大法学部を卒業後、労働省(当時)に入省。その後、駐ウルグアイ大使や文部大臣(当時)を歴任し、現在は女性初の日本ユニセフ協会会長を務める。女性が活躍する社会への大きな一歩を切り開いた赤松さんに、逆境でも挑戦を続けた信念や、今なお最前線で活躍し続ける思いを聞いた。(取材・高橋柚帆、本田舞花)
ちゃんとした仕事を持ちたい 津田塾、そして東大へ
━━仕事を持ちたいと思ったきっかけは
子供の時、近所に働いている婦人の方がいました。職業婦人と呼ばれていて、女は働くもんじゃないと思われて尊敬されない世の中でしたが、私は尊敬していました。かっこいいんだもの、やっぱり。洗濯機もない時代、近所のおかみさんがたらいを使い手で洗濯している一方で、職業婦人はきちんと着物を着て働きに行き、時間になったら帰ってくる。洗濯をするよりも働きに行くのがかっこいいと感じました。
私の母は高知の田舎出身で、小学校も出ていませんでした。明治時代でも、義務教育である4年制の小学校を出ている人は多かったですが、母はそれすら出ていなかった。それを恥ずかしく思った母は周りに伝えていなかったので、あとで分かったことでした。だから、自分の子供はちゃんとした学校に行かせたいと母は強く思っていて、私もその母の思いを感じていたんです。
━━戦後まもなく上京した理由は
津田塾専門学校(現・津田塾大学)に入る前、私は大阪府にある5年制の女学校に通っていました。そこには、東北帝大(現・東北大学)出身の男性と、津田出身の女性の英語の先生がいました。男の先生は若くて好きでしたが、てんでひどい英語だったんです(笑)。津田を出ている先生の方が明らかに英語らしくて、津田は良い学校なんだと憧れました。私は英語が得意だったのでその先生にかわいがってもらっていて、先生と親しくなるためにもっと英語を勉強するようになりました。個人教育までやってもらっていました。
大阪出身の私にとって、東京に出るのは大変なことでした。それでも、津田を出ると英語の先生になれるんだと知って、ぜひ津田に行きたいと思いました。今の英語と当時の英語では、距離感が全然違います。今は英語なんて当たり前ですが、当時は英語ができる人がとても少なかったんです。津田に行きたいという人は他に何人もいたけど、実際に進学したのは私1人でした。
━━津田塾入学後、東大を志望した理由は
当初は、母校の女学校の先生のように、津田を出た後は大阪に帰って英語の先生になればいいかと考えていましたが、津田に入ったらそんなもんじゃすまない、より高みを目指そう、と。津田は「より高く」、エクセルシオールという気分のあるところでした。戦後すぐに、それまでは男性しか入学できなかった東京帝大(現・東大)や慶應義塾大学に、女性も入れるようになりました。それならばぜひ行きたいと思いました。津田を出ても選択肢が英語の先生に限られていたので、東大に入って選択肢を増やしたかったんです。
━━法学部に入学した理由は
法学部は、仕事に就く上で有利だと思いました。津田の上級生で、東大に入学した人は何人もいましたが、文学部の英吉利文学学科(現・英語英米文学専修)に進むと津田の延長になるだけだと思いました。津田の先輩で東大に入学した、森山眞弓さんと中根千枝さんという方がいらっしゃいます。森山さんは法学部で、中根さんは文学部でも東洋史学科(現・東洋史学専修)で文化人類学を学んでいて、お二人が英吉利文学学科とは別の道に進んでいた影響もありました。
仕事を始めるスタートラインの時点で、男性と差があるのは最悪だと感じていました。東大法学部を出て、男性と同じスタートラインに立って、よーい、ドン! で走り出せば、負けても自分がだめだからなんだ、ということになる。負けないぞと思いました。
━━当時の東大は800人の法学部生のうち女性は4人だったとのことですが、男性ばかりの東大で苦労したことは
津田を出て京大に進んだ先輩に「目立って大変だ」とぼやいたら「黒豆がずらっと並んだ中に白豆が二つか三つ入っていれば、目立つのは仕方がない」と言われました。下手なことをすると目立つから、じっとしていないといけないのは大変でした。
だけどいいこともありました。女子が少なくても、優秀な東大の男子学生はみんなとても親切でした。卒業間近の先輩が「僕はもう要らないから」と法学部の分厚い教科書をどさっと私の下宿先に持ってきてくれたんです。下宿先は本郷キャンパスまで歩いて15分くらいだったけれど、毎日送ってくれる男性もいました。女子と付き合いたいという下心があったのかもしれないけれど(笑)、そんなふうにいいこともたくさんありました。
━━東大での印象的な出会いはありましたか
入学した時に、法律相談所に入るといいと勧められました。法学部は人数が多くて付き合いにくいけれど、法律相談所は、人数も適当で皆真面目でした。そこでは、政治学科を卒業した後、司法試験を受けるためにもう一度法律学科に入り直した先輩との出会いがありました。怖い見た目でしたがとても親切で、彼が卒業して裁判官になってからも、亡くなるまで仲良くしてくれました。東大法学部でないとこんな出会いはなかったと思います。
私が入った時の法学部の先生は隆盛でした。憲法の宮澤俊義、民法の我妻栄・川島武宜、刑法の団藤重光。そして政治学が丸山眞男。丸山先生は肺結核で長い間授業をしておられませんでしたが、私が3年の時にゼミだけ復帰されました。当時はまだ30代でしたが、東大法学部に入ったからには丸山先生に教わらないと意味がないと先輩に言われたくらい、既に世界的な学者でした。「そりゃ大変だ、丸山ゼミができる」と大喜びでゼミに入りました。政治学の原書を読むゼミで、それまではドイツ語の原書を読んでいましたが、私が入った時は英語になりました。ドイツ語が苦手だったので得意なボーイフレンドに手伝ってほしいと頼んでいたんですが、立場が逆転して彼に助けてほしいと泣きつかれることになりました(笑)。英語でゼミが受けられるというのは当時印象的でした。丸山先生は病み上がりで無理をしないようにと話していたのに、好きなことについて話し出すと止まらない方でした。丸山先生に教わることができて、東大法学部に入った意味があったと思っています。
━━現在の東大は理事の約半数が女性になり、入学者の女性比率もこの春過去最高になるなど、女性の活躍の場が増えつつあります
女性の活躍の場が増えているのは東大に限らず当たり前のこと。戦後の民主主義の成果がだんだん現れているのだと思います。以前は、女性は頭の程度も力も下だと考えられていました。筋力は確かに男性に劣るかもしれませんが、頭脳も下だと思い込まれていたのが間違いで、同じ試験を受けたら女性の方が出来は良いかもしれない。東大に入った女性の中に、女性の方が頭脳が下だと思っている人はいないと思いますが、だからこそ東大に入ったからには頭で負けるもんかと思って頑張らなければいけない。良い仕事をするには頭が良いだけではダメで、熱意、本気が必要でしょう。女は長く働かなくていいんだと思われてきた時代が長いから、まだどこかにその感覚が残っていて「もうくたびれてしまった、仕事を辞めたい」となってしまう方もいますけれど、それはだめですよね。
1人目と2人目では大きな違い
━━官僚を志した理由は
まず、当時女性がちゃんとした仕事に就ける場所はほとんどありませんでした。普通の企業は女性を採らないというところばかりでしたが、応募する人が少ないので、採らなくても済んでいたのです。今や、女性を採用しない企業には将来がないと思いますが。
━━同期の男性に比べて昇進が遅く、調査係を任されることが多かったそうですね
私が労働省(当時)に入った頃は、法学部卒とはいえ女には調査をさせておけばいいと考えられていたんです。でも、婦人少年局があった労働省は、女性を採用していただけマシだったと思います。他の省は採用もしていませんでした。
━━在職中は仕事と子育てを両立させながら論文を執筆するなど、挑戦する姿勢を保ち続けました
仕事そのものはあまり面白くなかったのよね。会社勤めでも役人でも同じだと思いますが、下の方で働いている時はあまり面白くないんです。上に分からずやの課長がいたり。初めはつまらなくて、だんだん面白くなってくるのが仕事というものだと思います。その上、子供も小さいと大変な手がかかる。子供の世話は人を雇って見てもらっていました。仕事が面白くなく、自分の人生はもうちょっと良いものになったはずなのにこんなものなのか、と悔しく思わないで済むように、勉強をしたり論文を書いたりしていました。
━━1963年に米国に留学していますね
私はぜひ海外を見たいと思っていました。国家公務員には人事院の試験を通ると外国に行かせてくれる制度があり、3度目の試験でようやく行けることになりました。英語圏の英国か米国に行きたかったけれど、英国に行くにはこの成績じゃ無理よと言われてしまい、来る者を拒まず、おおらかな米国に行くことになりました。
━━米国で気付いた日本との違いはありますか
60年前、日本と米国には大きな差がありました。良い国だなと思いましたよ。その頃の米国では、主婦も仕事に出たいという動きが始まっていました。子供がちょっと大きくなって手が離せるようになると、女性が外に出て働く姿を見て、こういう時代が日本にも来るんだ! と思いました。
━━米国での出会いは
米国に行く前に、日本で労働問題の研究をしているアリス・クックさんと知り合いました。米国に行ったときには、コーネル大学の教授をしているアリスさんの家で1週間居候させてもらって。先生は、世界中のあちこちに友達がいる、とても親切な良い方でした。「どうしてそんなに良いお友達をたくさん持っていらっしゃるの?」と聞くと、「それは、私が友達というものをとても大事に思っているからですよ」と先生はおっしゃいました。なるほどと思って、日本に帰ってからは私もそれを実行しました。子供が小さいこともあって、それまでは家族の中で生きていたけれど、広げなきゃダメだと思うようになりました。
━━知り合った人と生涯に渡って交流を続ける秘訣(ひけつ)は
自分自身が、友達を1番だと思うことが大事。そう思えば相手を大事にするようになるでしょう。何日会えなくたってなんてことはない。しかし、今でも婦人少年局の頃の友達は違います。お互いに歳をとったけれど、いまだに1週間会わなかったから大変よ、鰻(うなぎ)食べよう、なんて言って集まっています(笑)。
女性たちよ、政治分野でもさらなる活躍を
━━女性初の仕事を数多く務めました
津田の先輩の森山さんは、女性初の内閣官房長官や文部大臣(当時)になった方です。一昨年に亡くなった時、森山さんがいたから、私が頑張って道を切り開かなくても済んだ面があるんだなと思ったんですよ。
何でも、最初の人というのはとても大変なものなんですよ。初めての仕事も2人目の仕事もいくつもやると、その違いがとても分かります。2人目は5、6人目に比べると大変だけれど、それでも1人目との差はとても大きいんです。最初の人にはやっぱり敬意を払うべきだと思います。
例えば外交官でいうと、緒方貞子さんが日本人女性初の国連公使を務められて、私は2人目でした。大使を務めたのも私が2人目でした。高橋展子さんが日本で初めての女性大使(デンマーク大使)になった時には、世の中ひっくり返るくらいの騒ぎになりました。高橋さんの飼い猫に円形脱毛症ができてしまったなんて、象徴的なエピソードもあります。取材陣が朝から晩まで大勢自宅に詰めかけたんです。私は2人目だから、なんでもないの。随分違いました。
━━官僚を辞めた後も「WIN WIN」「クオータ制を推する会」「赤松政経塾」などさまざまな団体を設立していますが、どのような思いで最前線に立っているのですか
とにかく、私が初めから思っているのは、職業を持って長く働きたいということ。93歳の今も、頭がしっかり働く間は、最後まで働きたいと思っています。
世界経済フォーラムが発表しているジェンダーギャップ指数では、四つの分野で女性の地位を測っています。日本は、健康はとてもいい。教育も悪くない。大学院などでは男女の差がありますが、基礎教育ではちっとも劣っていない。経済では、管理職の女性が少ないので、指標が少し下がる。そして、政治になると女性の地位がガクンとが下がるんです。日本は女性の国会議員がとても少なくて、国会での女性比率を見ると、参議院は2割くらい、衆議院は1割にもなりません。政治分野が主な原因で女性の地位が大きく下がっているのです。
だから私はWIN WINという団体で、クオータ制を進める活動をしています。クオータ制というのは、議席の5割は無理でも3割は実現させようと目標数値をはっきり出す。先進諸国は大体取り入れていて、スウェーデンやノルウェーではもう国会議員の約半数が女性です。米国や英国でも進めているけど、日本はそれもしないでしょ。こういう方法があるよと、まず言い立てないといけません。まず政治を変えないと他の部分も変えられないですよ。
━━赤松さんは男女雇用機会均等法の制定に尽力されました
均等法の母と言ってください(笑)。
━━制定後、社会が変わったと思う場面はありましたか
なかった時とは大違いです。だけど、まだ足りない。均等法ができた時に、「小さく産んで大きく育てる」という言葉を言いました。初めは全部努力目標に過ぎず、差別は良くないよというだけだったけれど、今は差別をしたら無法という世になっています。だいぶ大きく育っているんです。法律ができたからと言っていっぺんに世の中が変わるわけではないですから、まだまだ日本では女性の地位は低いです。けれど、法律があるとないとでは大きく違います。
━━東大で学ぶ女性にメッセージを
私の時代より東大に通う女性が増えているのはとても結構なことですが、22.7%というのはやはり少な過ぎると思います。東大を出ることで得をすることは沢山ある。そして、恵まれた場に置かれているというのは、それだけの責任が生まれます。それを自覚して、自分の受けているものはちゃんとお返ししないといけないと思いながら活躍してほしいです。