今年も多くの東大の研究者が、研究成果や長年の功績を認められさまざまな賞を受賞した。受賞者全員を詳しく紹介することは紙幅の都合上かなわないため、日本学士院賞を授与された5人と紫綬褒章を受章した7人を中心に、その研究や業績を紹介する。(構成・山口智優)
紫綬褒章とは
学術やスポーツ、芸術文化上の発明改良創作に関し事績が著明である者に授与される褒章。毎年、4月29日(昭和の日)と11月3日(文化の日)に授与される。
紫綬褒章(春)受章者
石原一彦名誉教授
バイオマテリアルの創出と医療機器への実装に関する研究活動の業績により受章。ポリマー(高分子有機化合物)科学を基盤として、バイオマテリアル(ヒトに移植することを目的とした材料)の創出と医療機器への実装に関する研究を推進した。細胞膜の表面構造を再現でき、体内に入れても血液凝固などの拒絶反応が生じないリン脂質ポリマーの効率的な合成法と精製法の確立は、生体内埋込み型人工心臓、人工股関節、冠動脈ステントなどにおいて臨床応用されている。特に人工股関節は、東大附属病院整形外科との医工連携の成果であり、すでに10万件近い症例に使用されるなど、患者の生活の質の向上に大きく寄与している。コンタクトレンズの長期装用が可能になったのもこの技術による。02年から21年まで、東大大学院工学系研究科教授。現在は大阪大学特任教授。
沖大幹教授(東京大学大学院工学系研究科)
「グローバル水文学(すいもんがく)」分野の開拓による水文学の発展や、水資源問題解決に向けた国内外での政策立案への貢献などの業績により受章。水文学とは、自然界における水の循環と人間社会との関係を研究する学問分野。沖教授は、灌漑(かんがい)・貯水池操作等の人間活動を組み込んだ世界初のグローバルな水収支・水資源モデルを開発し、気候変動が将来の世界の水資源需給や洪水リスクに及ぼす影響を評価した。また、バーチャルウォーター(輸入品の生産に必要な水で、貿易により仮想的に輸入していると考えられる)の概念の整理や高度化、タイにおける洪水や土砂災害、農業、海岸災害などへの影響評価と、市町村レベルでの適応オプションの提示などにも取り組んだ。24年8月、「水のノーベル賞」とも言われるストックホルム水大賞を受賞。
納富信留教授(東京大学大学院人文社会系研究科)
西洋古代哲学を専門とし、古代ギリシアにおける「哲学の誕生」を研究テーマとしている。哲学の始まりとされる古代ギリシア哲学、とりわけプラトンを中心に据えて研究を行う。哲学の原像を哲学史的な観点から解明するとともに、それを通して、現代の「今・ここ」において哲学することの意義を問い続けてきた。プラトン研究においては、プラトン後期の代表的な著書『ソフィスト』に関する統一的な理解を研究史上初めて提示し、プラトンや「哲学」の発生を歴史的な文脈において解明する研究を展開。プラトンとソフィストとの相互対立関係を示す著書『ソフィストとは誰か?』(筑摩書房)に結実した。古代ギリシア哲学全般に関しては、新たな歴史区分を提起。その前半期を個々の哲学者の思索をたどる列伝体の形式で描いた、700ページにわたる大著『ギリシア哲学史』(筑摩書房)を著した。
紫綬褒章(秋)受章者
藤田友敬教授(東京大学大学院法学政治学研究科)
国内のみならず国際的なルール形成にも影響するような研究成果の継続的な公表、経済学など法学に隣接する他分野の知見を法学研究に応用する研究手法の確立などの業績により受章。経済理論の法学研究への応用という新しい研究手法の導入と確立に積極的に取り組み、中でも会社法の意義・機能を経済学のツールを用いて分析する手法の確立に尽力した。また、国連国際商取引法委員会(UNCITRAL)におけるロッテルダム・ルールズ(国際的な海上輸送に関して、関係者の権利と義務を規定する条約)の起草作業をはじめ、さまざまな国際機関におけるルール形成や運用に継続的に関与したほか、関連する研究業績を積極的に公表。国際的なルール形成における豊富な経験を活かして、日本の商法(運送法・海商法)の改正においても主導的な役割を果たした。
岩坪威教授(東京大学大学院医学系研究科)
アルツハイマー病を中心とした神経病理学の分野における研究や教育・社会貢献活動の業績により受章。基礎研究では、アルツハイマー病患者の脳内に早期から蓄積するタンパク質を発見し、それを産生する酵素の分子機構を解明。またパーキンソン病患者の脳内に蓄積する病因分子を発見・解析した。臨床研究面では、アルツハイマー病早期段階の自然経過を計測・記述する大規模臨床観察研究を開始。治療薬の治験に不可欠となる基準データを取得したほか、発症の前段階に起こる変化を解明した。また、アルツハイマー病疾患修飾薬(疾患の原因となっている物質を標的として作用し、疾患の発症や進行を抑制する薬剤)レカネマブについて、治験結果解析グループの主要メンバーを務めたほか、最適使用推進ガイドライン策定や薬事承認においても重要な役割を果たし、保険収載・実用化を導くなど、アルツハイマー病の根本メカニズムを対象とする治療の実現に突破口を開いた。
石原あえか教授(東京大学大学院総合文化研究科)
ドイツの文豪として知られるゲーテの高級官僚かつ自然研究者としての活動に着目。従来のゲーテ研究で注目されていなかったゲーテと近代天文学の関係を文献学的調査で解明した博士論文を起点に、近代自然科学とゲーテ作品との相互影響関係を明らかにし、科学史的視点を採り入れたユニークな研究成果を日独両言語で発表している。例えばドイツ語単著『ゲーテの《自然という書物》』では、物理学・植物学などにも対象を拡大し、現代的学問領域の成立と細分化の流れを再構成した。ゲーテ時代の文学・文化史と科学史・科学技術を結びつけた研究が特色で、仏・独の三角測量の歴史と相互影響および日本への受容から測地学・地学までを研究。またゲーテが評価し、皮膚科・性病科で活用された歴史的立体医学標本(ムラージュ)の記録・研究も行った。慶應義塾大学教授など経て、17年より現職。
中畑雅行教授(東京大学宇宙線研究所)
カミオカンデとスーパーカミオカンデ実験の主要なメンバーとしてニュートリノ宇宙物理学の発展に貢献した業績により受章。カミオカンデでの太陽ニュートリノ観測の重要性に着目し、データ解析プログラムの主要部分を構築するとともに、さまざまな工夫で信頼性の高い実験データを得て、1987年の世界で2番目の太陽ニュートリノ観測の成功に大きく貢献。スーパーカミオカンデ実験においても太陽ニュートリノ観測のために装置の開発、改良やデータ解析を進めた。特に、医療用線形電子加速器を使って電子をスーパーカミオカンデに打ち込み、測定器の正確なエネルギー較正を行い、太陽ニュートリノの精密観測を可能にした。01年にはカナダのSNO実験と共同で太陽ニュートリノ振動の証拠を得ることに成功。太陽ニュートリノの夜の観測数が昼の観測数よりわずかに多いという証拠を得ることに世界で初めて成功し、物質中でのニュートリノ振動の理解の正しさを決定づけた。
日本学士院賞とは
学術上特に優れた論文、著書その他の研究業績に対し授与される。恩賜賞は、日本学士院賞受賞者の中から各部1件以内で推薦される。
恩賜賞・日本学士院賞受賞者
菊地重仁准教授(東京大学大学院人文社会系研究科)
西ヨーロッパ世界が古代から中世に転換したとされるカロリング朝フランク王国時代において、統治の重要な手段となった「国王使節」と呼ばれるシステムを研究対象とする。膨大な量の文献を参照して、このシステムを担った人物の網羅的な調査を遂行。470人の特定可能な人物と、時を経て名前が分からなくなってしまった70人の人物誌を作成し、カロリング朝国王使節研究を新たな段階に引き上げた。この人物誌データが提供する情報は、このテーマに限らずカロリング朝フランク王国時代の国家一般の研究にも活用され、国際的に高い評価を受けている。独ベルリン大学客員研究員、上智大学非常勤講師などを経て、22年より現職。
小原一成教授(東京大学地震研究所)
深部低周波微動と呼ばれるプレート境界の長期にわたる微弱な振動現象を発見し、地震学の新分野開拓に大きく貢献。断層が毎秒1m程の高速で滑る「地震滑り」の中で何が起きているかの観測はこれまでほとんどなく、理論研究の範囲だった。小原教授は、震動を伴わないプレートの滑りである定常滑りから地震滑りへと遷移する領域で、定常滑りよりはるかに速く、かつ地震滑りより有意に遅い深部低周波微動(スロー地震)と呼ばれる滑り現象を2002年に発見。この微動源は、沈み込んだプレートの等深線や巨大地震の震源域の最深部とよく一致した分布を示した。今では複数の異なるタイプの現象が存在することが知られている。小原教授の研究成果は、南海トラフ地震などの巨大地震の発生予測にも考慮されている。
日本学士院賞受賞者
安藤宏教授(東京大学大学院人文社会系研究科)
著書『太宰治論』(東京大学出版会)において、「自意識過剰の饒舌(じょうぜつ)体」と呼ばれる特徴的な文体によって日本の近代小説を代表する作品を生み出した太宰治の小説家としての歩みを明らかにした。太宰の小説家としての活動時期を4期に分け、それぞれの時期の代表作を社会的・文化的な環境を検討。素材やテーマの分析に加え、小説における語り手の言説を意味する「語り」という視点から作品の構造を分析し、「自己言及のドラマ」と称される太宰の小説の魅力を提示した。それが太宰治という1人の小説家の問題として閉鎖的に論じられるのではなく、「『私』の表現はどのような文体や語りにおいて可能なのか」という日本の近代小説が抱えてきた大きな問題の解明にもつながる開かれた研究になっており、日本近代文学研究を切り開くものとして高く評価されている。
菅裕明教授(東京大学大学院理学系研究科、東京大学先端科学技術研究センター)
「フレキシザイム(人工リボザイム)」、「環状特殊ペプチドの無細胞翻訳合成」、「RaPIDプラットフォーム」など、独自の技術を多く開発して、鋳型mRNAからさまざまな非タンパク質性アミノ酸を組み込んだ分子「環状特殊ペプチド」の調製に世界に先駆けて成功。また、ポリペプチドを自在に合成する、遺伝暗号リプログラミング技術の発明が注目された。これらの新技術の効果的な統合により、疾患原因となる標的タンパク質に強く結合する薬剤候補のペプチドを高確率かつ迅速に探索することを可能にし、中分子の薬剤ペプチドを人工的に合成する「特殊ペプチド創薬」分野を創始した。
清野宏名誉教授
歯周病とともに二大口腔疾患の一つとされる齲蝕(うしょく、虫歯のこと)のワクチン研究を原点として、腸管と呼吸器の粘膜免疫機構の解明を先導。口や鼻などから接種し、粘膜免疫を強める効果もある粘膜ワクチンの開発を行った。冷蔵・冷凍保存が必要で、状況によっては運用が困難な既存ワクチンの課題克服を目指し、常温備蓄用のワクチン開発を進めた。加えて、経鼻ワクチンのデリバリー体(薬剤を目的の免疫細胞に届ける役割を持つ物質)であるカチオン化ナノゲルを医工連携で開発。これは正に帯電した骨格を持つ微小な粒子で、負に帯電した呼吸器粘膜面の免疫システムに安全かつ効果的に薬剤を届けることができる。カチオン化ナノゲルを使用した薬剤を用いて、肺炎発症抑制効果のある免疫を誘導することに成功している。