2015年度は五神真総長が就任し新たな大学改革が始まった幕開けの年だ。過去に東大ではどんな改革が実行されてきたのだろうか。有馬朗人元総長は1989年から93年まで総長を務め、研究・教育環境の改善など現在の東大にも影響を与える改革を進めた。文部相(当時)として大学法人化に携わった経験もある。当時行った改革と、現在の大学に何が求められるかを聞いた。(取材・横井一隆、撮影・矢野祐佳)
当時の劣悪な研究環境
―1985年に理学部長、89年総長に就任し、東大運営の中枢に関わっていきます
理学部長に就任して取り組んだのは東大の研究費や施設費不足問題です。当時は、科学研究費補助金と学術研究助成基金助成金を合わせた科学研究費(科研費)は東大に限らず日本全体で年間450億円ほど。一方、同時期の90年度、日立製作所の研究開発費は3800億円。桁が違いました。
施設もひどかった。今では考えられないかもしれませんが、窓を拭こうとしたら窓枠が落ちたり、部屋が足りないため1階の部屋の中に中2階を作って大学院生の勉強スペースを作ったりと当時の東大は散々な状態でしたね。
この悲惨な状況の背景には、60年代後半に起こった大学紛争があります。全学一斉のストライキなどの学生運動を終息させるのに大学は手を焼きました。国から「大学の先生たちは大学を管理する能力が低いから、資金を割いても仕方ない」とのレッテルが国から貼られ、放置されたのです。また、大学紛争後に新たに設立された筑波大学などの国立大学や研究施設に研究費や施設費が使われたことも、東大や他の国立大学の資金不足の一因となりました。
総長就任後、東大の状況を広く社会に理解してもらうため、マスコミや文部省(当時)の役人に東大へ足を運んでもらいました。その後、経団連や財界人、井上裕文部相(当時)も東大に呼ぶことができました。井上文部相はキャンパス内の施設を見て「放っておいたこと誠に申し訳ございませんでした」と謝っていかれましたね。
このような苦労が実って科学技術基本法が95年に成立し、96年から5年ごとに科学技術基本計画が出されると定められました。科研費は総長のころからは大きく伸びて、最近は2千億円を超えています。施設費も改善され、現在東大や他の国立大学で新しい建物が建っているのはその現れです。
―大学の自己点検・外部評価を導入しますが、どのような経緯だったのでしょうか
当時から……今もだと思いますが、大学って何をしているのか分からない組織だという社会の声がありました。そこで東大の活動を自己点検してその結果やデータを公開しました。また、自己点検だけでは客観性が低いので外部評価も導入すべきというのが私の考えでした。
まず私が所属していた理学部物理学科を、海外を含めた東大以外の物理学者に評価してもらいました。「非常に質の高い研究と教育がなされている」との評価をもらう一方で「施設や設備が劣悪」だとの評価も得てしまいました。
これを文部省が聞いて心配し、科学技術基本法制定の動きを促すこともできたようです。外部評価で示されたデータは客観性を持ち、大学の情報発信につながります。また、外部評価で見つかった問題点を端緒に大学改革や国の行政改革を進めることもできます。その後、大学の外部評価が広がり、大学評価・学位授与機構が国立大学の評価をするようになりました。
教養教育の重要性示す
―総長時代に大学院重点化構想も推進しました
この構想は、私の一つ前の森亘・元総長と理学部が独立に唱え始めたものです。学部よりも専門性を備えた人材の輩出を目的とする大学院が資金面で弱く、その役割を果たし切れていないことへの問題意識から始めた改革でした。しかし、構想を唱え始めた当時は反対の声がとても大きかった。例えば、経済学部の教授会懇親会へ行ってこの改革の必要性を訴え、何とか賛成してもらいました。
大学院重点化には他大学でも反対意見が挙がっていました。しかし、いざ東大が大学院重点化を実行すると、驚いたことに他大学もわれ先にと大学院重点化を推進。東大に追随して「雨後のたけのこ」のごとく立場を変える大学の姿勢には今でも不満がありますね。
―大学院を重点化すると同時に一般教育(教養教育)の重要性を訴えます
91年に大学設置基準に規定されている一般教育と専門教育の区別を廃止する大綱化が行われます。つまり国立大学は一般教育を学生に施さなくともよくなったわけです。経費が削減できるため、多くの大学が一般教育を担当する教養部を解体しました。
しかし東大総長として、また国立大学協会会長として私は教養部解体に断固反対でした。というのも当時大学進学者数が増えており、大学生の能力や知識の質は全体として以前より低下していたためです。入学後に教養教育をしっかり施し、大学生の知識不足を補完する必要があると考えていました。教養教育を経た上で専門教育を受けた学生の方が人間的に伸びるという実感もありましたね。
そこで東大では、教養部解体の流れと逆流、つまり逆に教養学部の教官数を増やしました。また教養学部の大学院、現在の総合文化研究科も重点化しました。
他には、英語教育の抜本改革や教材の開発など教育内容の充実にも動きました。例えば、昨年度まで前期教養課程文系の必修科目だった「基礎演習」のテキスト『知の技法』(東京大学出版会)は、当時教養教育の重要性を示す目的も兼ねて出版されたものです。
東大はリーダーシップを
―総長として数々の改革を進めたのち93年3月で退任します
退任後10月に理化学研究所理事長に就きました。当時進めたのが「ポスドク等1万人計画」。「等」と付けたのは博士研究員(ポスドク)だけでなく、大学院生を含め奨学金など援助をするという目的からでした。私自身、早くに父を亡くし、中学時代から大学院生までずっと家庭教師して学費を得ていました。これからの学問を作り上げる研究者の卵がお金の心配をせずに勉学や研究に打ち込める環境を作りたかったのです。
当時、政府の委員も務め行政に関わりつつありました。その経緯で国政を手伝えとの要請があり、乗り気ではありませんでしたが98年に参議院選挙となり、文部相と科学技術庁長官を兼任。任された仕事は、両省庁を統合し文部科学省を作る準備です。科学技術系人材育成に特化した高校「スーパーサイエンスハイスクール」の設置など教育に科学を取り入れることができました。
また、大学の法人化にも携わりました。小渕恵三内閣(当時)は公務員を減らすためという文脈の中でこの政策を唱えていましたが、私は教育改革の面で考えました。そして政府以外の資金も得て大学を財政的に豊かな組織にできると思い、大学法人化を進めようと結論付けました。しかし、私が政界を退いた後に実施された大学法人化は運営費交付金が減少するなど私の思い描いていた通りではなかったですね。
―法人化した現在の東大および日本の大学にはどのような課題がありますか
法人化以後、政府からの教育費や運営費交付金が減って教員を新しく正規で雇用できない状況にあります。現在は政府以外の外部資金を利用して任期付きでポスドクを雇う場合が多いです。その結果、将来に不安を感じ、博士課程に進む学生やポスドクが減っています。特に東大で目立っていて心配です。
また、資金の不足は日本の学術論文の数と質低下にもつながっています。人口減少も踏まえ、優れた研究成果を日本全体で挙げるのは教育を充実させ各人の能力を高めるしかないと思います。そのため高等教育費の公的支出を増やすべきです。
方法のもう一つとして外国人の研究者を採用し、共同研究することが必要でしょう。外国人と協力すると、論文の評価が高くなる傾向にあります。明治時代のお雇い外国人とは逆に、日本が外国人に最新の科学技術を教育して育てるつもりで外国人を日本に呼ぶべきです。米国の代表的大学に倣い、全教員のうち2、3割程度を外国人にしたいですね。
一方で学長(東大の場合は総長)が自分の方針を示し、執行部がそれを支えるという体制ができているのはよい面です。特に東大には改革の方向性や手段を他大学に示すリーダーシップを発揮してほしいです。
―大学には具体的にどのような方向性があると考えていますか
日本の学力や研究力を高める方向に進めるのが大前提でしょう。大事なのは各大学自身がより具体的な方向性を決断し進めることです。東大は世界の一流大学となり大いに活躍してほしいです。他大学も自分たちの特徴を出してほしいですね。例えば、私は太平洋戦争中に工場で旋盤を作りましたが、そうした実学や職業教育は戦後、力が入れられていない部分です。職業教育中心の大学にするという方向性もあるでしょう。
法人化して政府との距離ができました。それにもかかわらず、政府に「こう改革してください」と言われて大学が従うのでは意味がありません。「餅は餅屋」といいますが、大学改革は大学自身が現場に根差して決断するのが一番なのではないでしょうか。
ご経歴
※この記事は、2015年8月4日号からの転載です。本紙では、他にもオリジナルの記事を掲載しています。