イベント

2019年2月5日

「姫野カオルコ『彼女は頭が悪いから』ブックトーク」レポート ~「モヤモヤ」とともに振り返る~

 2016年、東大生・東大大学院生5人による集団強制わいせつ事件が起き、世間に衝撃が走った。あれから2年以上がたった2018年7月、事件に着想を得た小説『彼女は頭が悪いから』(文藝春秋社刊)が出版され、再び大きな話題となった。

 

 そんな中、2018年12月に東大駒場キャンパスで開催されたブックトークイベント。あっという間に過ぎた、濃密な2時間の内容を、編集部員によるイベントの書き起こしと共に振り返る。

(取材・石井達也、一柳里樹、高橋祐貴、武沙佑美、楊海沙 構成・武沙佑美 撮影・石井達也)

 

レポート記事本文のリンクをクリックすると、書き起こしの該当発言部分にジャンプし、ジャンプ先のリンクをクリックするとレポート記事本文に戻れます。実際にどのようなニュアンスでの発言だったのか、少しでも感じ取る手がかりにしていただけますと幸いです。

 

<イベント詳細>

日時:2018年12月12日水曜日 19時~21時

場所:東京大学駒場キャンパス 21KOMCEE EAST 地下 K011教室

講演者:姫野カオルコ(作家)

パネリスト:大澤祥子(ちゃぶ台返し女子アクション・代表理事)、島田真(文藝春秋 ノンフィクション編集局、「月刊文藝春秋」・ノンフィクション出版部担当局次長)、瀬地山角(東京大学大学院総合文化研究科・教授)、林香里(東京大学大学院情報学環・教授、MeDiメンバー)

司会:小島慶子(エッセイスト、東京大学大学院情報学環 客員研究員)

主催:メディア表現とダイバーシティを抜本的に検討する会(MeDi)、東京大学大学院博士課程教育リーディング・プログラム「多文化共生・統合人間学プログラム」教育プロジェクトS

協力:株式会社文藝春秋

 

 序盤、トークの主催者である林香里教授(大学院情報学環)から、トーク開催の趣旨の説明があった。林教授はわいせつ事件発生後、東大内で事件に関する議論があまり起きていなかったことと、社会で被害者女性を批判する声や一部の学生の仕業として事件を片付ける風潮があったことに言及。徐々に事件が人々に忘れ去られていくことによる再発の可能性への危機感を述べた。そして、東大でこうした、外部の人にも開かれたイベントを開催しジェンダーや性暴力の問題について議論することは、自らへの社会の目を意識する機会となり「組織の中のダイナミズムや制度に変化を起こすエネルギーが生まれるきっかけとなる」と力説した。また、事件は一部の学生による一回性の出来事ではなく、「東大という記号に付いて回るようなエリート主義や社会からの東大への過剰な期待やまなざしから生まれるプライドと関係があるのでは」と述べた上で、「きっと爽やかで気持ちの良いにはならないと思うが、参加者のみなさんには、シンポジウム終了後のわだかまりやモヤモヤを持ち帰り、周囲の人と語ってほしい」と強調した。

 

林香里教授

 

 まず話題となったのは実際起きた事件と本のフィクション性に、どう折り合いをつけるかということ。著者の姫野カオルコさんは、本の登場人物の心情や心理を描写する際、実在する特定の個人の属性と切り離して書くことの大変さを振り返った。そして、登場人物はあくまで架空の人物であり、世間一般の人が読んで理解でき、商品として成立するようなストーリーにする工夫をしたことを説明。これを聞いた小島さんは、小説が「たまたま架空の人物が東大に通っていて、たまたまこういう考え方をしているというだけでは読めないというのが興味深い」と切り込んだ。

 

小島慶子さん

 

「東大」という記号を分析することで東大は強くなる 

 

 そこから話題は各方面の読者の反応へ。本が出版された当時の文藝春秋担当者だった島田真さんは、自身含め、人を値踏みしたり女性蔑視したりする加害者の態度に「身に覚えがあった」という意見が多かったことを紹介した。一方、東大関係者の中には「こんな東大生なんていない」という声もあったことに触れ、小説は全てフィクションであり「小説で描かれている東大生像がどの東大生にもあてはまることだとは全く思わない」と念を押した。これについて小島さんは、「フィクションの登場人物であるたった一人の東大生のイメージが自分にも影響するのではと不安がる状況自体が、その人が普段『東大』というブランドにどれだけ抑圧されていると感じているかを表していると思う」と述べた。

 

島田真さん

 

 ここで瀬地山角教授(総合文化研究科)が、自身が東大で受け持つ2~4年生対象のゼミで、学生から「リアリティーを持って読めなかった」、小説は「東大生をひとまとめにしておとしめること以外には成功していない」という批判があったことを紹介。女子比率の数値、東大の学生寮である三鷹寮や理I生の学生生活に関する描写、そして何よりも主人公の東大生、竹内つばさが「ピカピカツルツル」で「挫折感がない」と描写されている点が、自身も「一番違和感を感じた」と力を込めて評した。「むしろつばさは東大の中で落ちこぼれていて、その代償行為として性犯罪が行われているのではないか」と述べた上で、この挫折感のなさゆえに「東大生は自分の問題として読めなくなってしまったのでは」と分析した。

 

瀬地山角教授

 

 瀬地山教授の強い口調に対し姫野さんは困惑した様子を見せ、瀬地山教授の挙げた挫折は「私のような一般の者には味わえない挫折」だったために描写し得なかったと説明。東大生が共感できなかった点に関しては、竹内つばさが挫折感のない人間として描写されていても、「『ああ、東大生ってみんなこうなのか』と思う人っていないと思う」と反論した。

 

姫野カオルコさん

 

 「挫折に違いはあるのか」という話題が盛り上がりを見せようとしていたところで、林教授が「その挫折は誰が作っているのか、と私は聞きたい」と一言。自身も「東大の教授のくせしてそんなことも知らないのか」「女の教授だから知らないのか」と言われた経験から「『東大』という記号が挫折を作っていると思う」と断言し、「その記号は誰が作り出しているのかを問いたい。東大というだけで周りに頭がいいと思われる社会現象を分析していくことで『弱い東大』が見えてくるはずで、そうして東大は強くなれる」とブックトークの趣旨を再確認した。そして、瀬地山教授が紹介した、「共感できない」「東大生をおとしめている」という小説への東大生の批判に対しては、「それならばそういう記号とは違う自分たちをもっと発信していく必要がある」と語った上で、「その記号で得しているのは、すごくマスキュリンな『男性の東大』だ」とも主張した。

 

「性的同意について理解してほしい」 ちゃぶ台返し女子アクション

 

 ここでいったんトークセッションは終了。パネリストの一人で一般社団法人「ちゃぶ台返し女子アクション」代表理事の大澤祥子さんから、性暴力防止に努める団体の活動説明があった。

 

大澤祥子さん

 

 「ちゃぶ台返し女子アクション」は、性に縛られずにあらゆる人が自分らしく生きられる社会を目指している市民団体だ。特に今は性暴力をなくすために、性的同意を文化として根付かせる活動に注力している。大澤さんによれば、性的同意とは「全ての性的な行為において必要とされている積極的な参加の意思表示」。性的同意を担保する上で大切な点を三つ挙げた。一つ目は、いつでも断ることができる状況での同意であること。二つ目は、相手の地位や体力など支配的な要素に左右されない対等な関係における同意であること。三つ目は、同意の非継続性だ。「家に行った」「前にもその人と関係をもっていた」などといった別の行為にOKしたからといって性的な行為がOKになるわけではないと語り、「美咲さんが受けたような被害者バッシングはこの点と関連しているのではないか」と推測した。

 

 また、性的同意は性的行為を起こす側に同意を得る責任があること、性暴力を防ぐにあたり第三者が介入することが重要であること、性暴力を防ぐために大学が組織として取り組むことが大切であることを強調。最後に「性暴力の背景にある性的同意について、もっと多くの人に理解してほしい」と締めくくった。

 

一般読者が納得するような東大の描写を覆せ

 

 次に話題は被害者バッシングへ。小島さんは、なぜネット空間で東大に関係ない「匿名の野次馬的な人たち」が、東大を擁護するような被害者バッシングをしたのか、という疑問を提示した。メディア研究に携わる林教授は「ネットの書き込み空間では男性の意見が強く反映され、中でも非常に極端な意見がどんどん助長され元気になっていく」と分析。これに対し小島さんは、性別のみならず学歴至上主義やブランド主義も関係しているのではないか、という見解を示した。

 

 ここでディスカッションは再び、小説のリアリティーに関する話題へ。島田さんは瀬地山教授の「小説にはリアリティーがない」というトーク前半の指摘を持ち出し、「小説はノンフィクションではないので、(東大の)世界を完全に再現することは目指していない」と再び強調した。東大に関する詳細な描写が間違っている、という指摘が「東大生らしさ」とも言える可能性を示唆すると、小島さんは、「東大生らしい」と納得してしまうような「そのまなざしはどこからやってくるのか」と、林教授が話したトークの趣旨に話題を戻した。

 

 

 ここに瀬地山教授が、「挫折の醜さがあるからこそ、東大というブランドの醜さがきれいに出るはずなのに、(挫折が描写されていないため)それをピカピカに出し過ぎている」と改めて一言。これを聞いた林教授は、この小説を読んだ東大生に対し、描写の違いに反発を覚えるならば、一般の人がそういった描写に納得してしまう原因を追求した上で、一般の人が考える「東大」とは違う「東大」を考えてみるエネルギーにしてほしい、と呼び掛け、姫野さん、島田さんも賛同する様子を見せた。

 

 小島さんが、登場人物のうちの竹内つばさの兄と山岸遥香が学力や学歴とは違う価値を体現していたと述べ、姫野さんに彼らの人物設定は意図的だったのかと問うと、姫野さんは、小説を書いているうちに登場人物が「一人歩き」していたので意図的かどうかは分からない、と曖昧な反応を示した。つばさの兄のような東大生はいると思う、という付け加えに対しては瀬地山教授が、その点でも東大が「理想化されている」と強く否定したが、小島さんは小説の人物のリアリティーを検証するのも興味深いが、姫野さんの小説はストーリーとしての人間の感情や行動を味わう場として面白かった、とパネルディスカッションをまとめた。

 

 

性犯罪を二度と起こさないために、東大ができること

 

 最後の約30分は、質疑応答に費やされた。1人目の質問者は、本郷キャンパスに通う東大の女子大学院生。自身が学生生活の中で見聞きした性的暴力の加害者は劣等生に限らないと述べ、瀬地山教授の発言について、一概に東大生を特徴付けて小説の世界を否定することに疑問を呈した。また、加害者を擁護する論理として、トークに登場した「劣等生だった」こと以外にもあるのではないかと述べ、瀬地山教授に意見を求めた。瀬地山教授は後者に言及し、セクシュアルハラスメントに関して本郷キャンパスでの対策や大学院生への全学的な対策は全くできていなく「本当に申し訳なく思っている」と断った上で、性犯罪の背景を正確に理解するには複数回にわたる調査が必要だ、と頭を下げた。

 

 次に発言した総合文化研究科の矢口祐人教授は、瀬地山教授が紹介した学生の意見に対し、小説の読み方はいろいろある、と諭した。「文学論を読んでみては」という提案には会場内から拍手が沸いた。さらに矢口教授は、姫野さんの小説は東大の描写など細部の正誤に関わらず、東大の学生と教職員が「5人の東大生が集団レイプで逮捕された」という紛れもない事実を真剣に受け止め、原因を考えさせてくれる小説だと評価。小説末尾に登場する美咲の大学の先生について、東大の教員として「そういう教員になるにはどうすればいいのか」ということをもっと教員の間で話し合う必要がある、という意見にも再び拍手が沸いた。これについて瀬地山教授も、ジェンダー論の講義を担当している身として東大で性犯罪を「ゼロにする」こと、そのためにも女子比率を上げることは、自身の最重要課題の一つだと力強く返した。

 

 沖縄県から東大にやってきたという2年生の男子学生は、自身の東大への入学経験を振り返り、小説に登場する加害者たちに対し理解を示した。ところどころで笑いを誘いながら、「加害者たちには東大に入っても異性経験がないという不安もあったのではないか」と、素直な口調で推察した。

 

 

 最後の質問者だった、恋愛相談のイベントを主催していた3年の東大女子学生は、小説末尾に登場する東大卒の弁護士に言及。学生時代を無難に終えた東大生が弁護士や医者など「偉い職業」に就いた後、クライアントや患者など「弱者」に対して東大生の頃に抱いていた価値観と同じものを持ったまま接することを問題視した。そして、大学教育として性的同意に限らず「もう少し包括的に、何か倫理的に」できることはないのか、と質問すると、会場内からはまたもや拍手が。林教授は問題の構造的な原因として男女比率のゆがみを挙げた上で、1、2年生の教養課程の間に、瀬地山教授が担当する授業で教えるようなジェンダー教育を必須にするべきだと主張した。

 

残る「モヤモヤ」を無駄にしない

 

 終始白熱した雰囲気に包まれていたブックトーク。議題は紆余曲折しながら多岐にわたったが、中でも小説から読み取れる「東大」の描写をどう解釈し、折り合いを付けるか、というテーマが繰り返し登場した。林教授の予言通り、会場にいた参加者の心の中にわだかまりや「モヤモヤ」が残るイベントとなったことには間違いない。姫野さんが万全な体調で臨むことができなかったことは悔やまれるが、この白熱したイベントを機に、社会が作り出す「東大」や性別という「記号」としっかり向き合い、「『強い』東大」を作り上げるために必要な議論を促すよう努めることを、一東大生として誓いたい。

 

 

2019年2月7日6:00【記事訂正】書き起こし部分の誤植を数カ所訂正し、さらに省略していた冒頭の姫野さんの発言に係るやりとり及び、最後の質問者の決定に係るやりとりを追記しました。「なるべく忠実に再現」としながら、本筋とは関係ないという編集部の判断で一部のやりとりを省略していたことについて、心よりお詫び申し上げます。

 

【姫野カオルコ『彼女は頭が悪いから』ブックトーク関連記事】

『彼女は頭が悪いから』作者・姫野カオルコさんインタビュー 小説に込めた思いとは

姫野カオルコブックトーク 主催者林香里教授に聞く 不十分だった性暴力反対の議論

ジェンダー論・瀬地山角教授と振り返る、姫野カオルコブックトーク【前編】「モヤモヤ」が残った理由とは

ジェンダー論・瀬地山角教授と振り返る、姫野カオルコブックトーク【後編】 伝え切れなかった東大の現状


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 ネット上で伝聞の情報が拡散し、さまざまな議論を呼んだ今回のブックトーク。議論の全容をなるべく多くの人に知ってもらうため、以下に弊社編集部員が録音に基づいて書き起こした議事録を添付する。口語や繰り返しの表現を読みやすいよう書き換えた以外は、なるべく当日の発言を忠実に再現している。当日イベントに参加できなかった方も、以下の書き起こしから雰囲気を感じ取っていただければ幸いである。

 

小島さん:

 もともと『彼女は頭が悪いから』は「こんなすごい本がある」と客員研究員仲間の林香里先生に紹介していただきました。そこで林先生が、東大でこの本を扱ったトークをやりたいということをおっしゃっていて、まさか年内にこんな形で実現できるのは非常に嬉しいことで、すごく責任も感じています。今日ご登壇いただきますのは、この作品をお書きになった作家の姫野カオルコさん、そしてこの本が出版された当時の文藝春秋のご担当である島田真さん、東京大学大学院教授の林香里先生、駒場キャンパスで1・2年生にジェンダーを教えている瀬地山角先生、東大でもセクシュアル・コンセントをテーマにしたハンドブックを配布するなどの活動をしている「ちゃぶ台返し女子アクション」の代表理事の大澤祥子さんです。司会はエッセイストをしております、私小島慶子が務めます。林先生の研究室で客員研究員として半年に一回メディア表現と多様性に関するシンポジウムを開催しております。よろしくお願いします。

 さて、本題に入りますが、この小説というのは皆様もご存知のとおり2016年に実際に起きた東京大学の男子学生による強制わいせつ事件を下敷きとしたあくまでもフィクションではありますが、非常に話題になっております。そもそもなぜ姫野さんがその事件を題材にして小説を描こうと思ったのか聞こうと思います。最初のきっかけは何ですか?

 

姫野さん:
 ちょっと…答える前にですね…ちょっといいですか…?学生さんはどの辺りにいらっしゃいます?

 

小島さん:
 学生さん、挙手をお願いします。

 

姫野さん:
学生…

 

小島さん:
白熱教室みたいになってる(笑)

 

(会場拍手)

 

姫野さん:
 学生、さん、ちょっとこっち来て…こっち見て…見て…
 緊張しません?

 

学生:
 すごい緊張しております。

 

(会場笑い)

 

姫野さん:
 そうでしょ?そうでしょ?
 (別の学生を指して)ちょっと、ちょっと来て。緊張しません?緊張しますよ。私、騙されて来たんですよ。こんなにいっぱい(人が)いるなんて。
 どうもありがとうございました。

 

(会場笑いと拍手)

 

小島さん:
 今のドキドキはここに座ってる大人が全員経験してる…

 

姫野さん:
 あの、文春の、小島さんと仲のいい、タケダさんが「小島さんが姫野さんに会いたいと言ってる」って言って、「東大の教室でちょっとおしゃべりどうですか」と言われて、「ああ、なんか5、6人で会うんだ」っていって、それで、「ああ良いですよ」って言って、その後、すごい忙しかったんですね。それで答えて、その後他のことしてたら、いろいろ告知とか見て、「えぇぇぇっ…」と思って。でも、いろんな方が関わっていて、今更やっぱりやめますって言えなくて。

 

小島さん:
 悪い人ですねタケダさんねぇ。全然あそこに座ってますけども。うーんそうなんですか。でもまあ来ちゃったからしょうがないですね、はい。

 

姫野さん:
 さっき、待合室でね、瀬地山先生が…

 

小島さん:
 ええ、そうです。今日瀬地山先生がですね、

 

瀬地山教授:
 「瀬地山さん」でお願いします。

 

小島さん:
 瀬地山さんがですね、瀬地山さん…。でもね、今日瀬地山さん大事な役割なんです。瀬地山さんは、普段あんまりメディアで報じられることのない、東大生の、及び東大関係者の、この小説を読んだ本音みたいなものをですね、おっしゃってくださるので。

 

姫野さん:

 あのー、この小説って、この事件を小説にするつもりは全然なかったんです。ただ、ニュースが出た時にまるで集団で一人の女の子をレイプ未遂したような事件であるかのような報道に違和感を感じました。それでこの事件の報道を聞いているうちに、その事件そのものは裁判も終わっていますし、その事件そのものではなくてその事件の報道のされ方やその事件に対する人々の反応の仕方がすごい気になりました。それを考えているうちに、小説になりました。

 

小島さん:

 小説の冒頭にもあるように、「そんな事件が起きたんだ」「どんな事件だったんだろう」という風に人の心の中で色んな欲望がうごめいているというありようが、この事件では特異であったというか、引っ掛かると感じたということでしょうか?

 

姫野さん:

 そうですね。

 

小島さん:

 その辺りは今回のブックトーク開催の趣旨とも関係しているかなと思うのですが、じゃあなぜこの小説を東大でブックトークという形で取り上げてみようと考えたのか、林先生にお聞きしようと思います。

 

林教授:

 この会を主催させていただきました、林香里です。よろしくお願いします。東大に勤める私がこの件についてどう考えるのかお話しさせていただきます。今日はお仕事や授業でお疲れのところシンポジウムに来ていただきありがとうございます。2016年に東京大学の集団強制わいせつ事件が起こって起訴されて裁判も終わったわけですが、その時に東京大学だけではなくて慶應大学や千葉大学の大学生による事件が度々報道されてはいました。その当時私は在外研究でアメリカにおりましたが、これを知って大学の教員として非常に心を痛め申し訳なく思いました。その時に何かできないかと思って新聞のオピニオン欄にも「キャンパスの性暴力 大学は具体策を急げ」というような投稿もして、私の意見を述べました。加害者が私の勤務先の学生だったのは悲しかったわけですが、それ以上に悲しかったのは、私が勤める東京大学からあまり声が聞こえて来なかったということでした。ただ、帰国して色々調べたり聞いたりすると、この事件について実は社会では色んな声があるということも知りました。非常に悪質な事件だと非難する声もありましたが、「女性が悪い」とか「男性の方がハメられた」、「一部の愚かな学生による仕業だ」という声も聞きました。そうした声はそっとささやかれる程度に止まっていて、そうこうしているうちにやがて事件そのものも忘れられていくような感じがします。私たちは次にこうした事件が起こるまで前の事件を忘れ始めている。そういうことに危機感を持っています。

 私の専門はメディア研究です。普段はメディアに対していろんな批判をして報道記事や番組のあり方の審査もしてきました。だから、いっぱしの大人が一生懸命やっている仕事について偉そうな批判をするということも、批判する方もされる方も心理的にきついものがあるということは何となく分かるわけです。そこで学んできたことの一つとしては、どんなに批判が辛くても、外からの目が入って批判され不都合なことを指摘され語られるということが、組織や個人を強くして組織の中のダイナミズムや制度に変化を起こすことができるのだと思います。そして、自分が社会からどう見られているか、何をすべきかについて考えざるを得なくなって良心とともに体にエネルギーやエンパワーメントが生まれるんじゃないかと思って、今日はこうした会を開きました。

 東京大学にとって、ジェンダーや性暴力の問題についてはこうした外の空気を触れることがとても大切だと思っています。どうしてこういう事件が起こるのか、そしてそれは一部のモンスターが引き起こす個別の事件なのか、そうではなくて東大という記号に付いて回るようなエリート主義や社会からの東大への過剰な期待やまなざしから生まれるプライドと関係があるのではと思いました。姫野さんの小説『彼女は頭が悪いから』はそういうことを私が考えている時に出版されたものです。この小説の着想は事件にあったということで、私は東大関係者として何となくいたたまれない嫌な気持ちになりました。でも、姫野さん自身も心理的に大きな負担を強いて書かれたのではないかと思いました。

 これは偶然なのですが、小島さんからお話があったように昨年からメディアの表現の多様性を抜本的に考える会を作っていて、メディアの表現とジェンダーを考えるさまざまなシンポジウムをしてきました。そして今年5月には財務省の次官が女性記者にハラスメントをしていたことも発覚して、その前にはジャーナリストの伊藤詩織さんがテレビ局の幹部に強姦されたことを告発しています。私の仲間はメディアにおけるこうした性暴力被害者の救援・支援活動もしていて、私は姫野さんの小説の読後感を仲間たちと語り合い、共有することができました。そして、今日仲間たちとこのシンポジウムを東京大学で開催することができました。ご登壇してくださった姫野さんありがとうございます。そして、シンポジウムを手伝ってくださった友達や研究仲間そして学生たちみんなに感謝しています。きっと爽やかで気持ちの良いシンポジウムにはならないと思います。姫野さんの本を読んで気持ちがざわざわしていろんなことを思い出して不愉快に思いこの話題を持ち出すことに怒りを覚える方もいらっしゃるかもしれません。むしろそれが自然なのではと思います。それでも私は、この問題は東京大学という記号が深く作用しているのではないかという思いがあります。だからどうしてもこの大学でブックトークを開催したいと思いました。今日このシンポジウムが終わった後、東大関係者はもちろん、聴衆のみなさんの心にわだかまりやモヤモヤなどいろんな気持ちが生まれると思います。このシンポジウムの成功があるとすれば、みなさんがその気持ちを持って帰って周りのいろいろな人と語ることではないかと思います。姫野さん、この小説を書いてくださりありがとうございます。ぜひ、ご著書について語ってください。よろしくお願いします。

 

姫野さん:

 (緊張で)ドナドナ歌いたい気分です。ドナドナ歌いますわ。

 

小島さん:

 今、林さんがおっしゃったように、東大だけでなく慶應大や千葉大で相次いだ性暴力事件や、メディアで報じられる性暴力事件の背景にあるのは何なのか、長い間女性たちがさらされてきたものであったり長い間不問に付されて来たものというのが、事件という形で現れていますよね。性暴力を放置する加害者の側では「当然だろう」「悪いことではないだろう」という意識がありますけども、「自分は力があるんだ」「自分はとがめられない立場だから別にしても構わないだろう」という色んな理由がありますが、その一つに例えば学歴だったり、男性であることであったり、社会的地位が高いことであったり、お金を持っていることであったりなど、いろんな理由がありますよね。中でも東大は学歴の中でも特別な記号化された、この社会のエリートであり勝ち組でありさまざまな羨望を込めて語られる記号化された学校名になっていますよね。性暴力事件の背景にあるさまざまな要素の中でも学歴、しかも東大という学歴がすごくセンセーショナルに、この事件において報じられたのだと思います。今日は性暴力の背景にあるものは何か、何をするべきであるか、どう防ぐか考えると同時に、なぜ東大がこれだけ注目されて、人々は東大×性暴力事件という掛け算をどんな気持ちで消費したのか、なぜ被害女性が叩かれたのかということを議論できればと思います。

 姫野さんは、実際あった事件をフィクションの形で書くというのは難しさがあると思うんですよね。あれだけセンセーショナルで細かい点まで報じられている事件をフィクションで書くと、どうしても「これが事実なんじゃないか」とフィクションだと思わずに読む人が出てくるというリスクがあったと思うんですけれども。

 

姫野さん:

 そこが一番苦労したところというか。まず事件のことを知りますよね。そこで加害者のことを知ってしまいますよね。それを忘れるのに労力を使いました。

 

小島さん:

 実在する人物に引っ張られないように、こうした高学歴男子たちが起こした強制わいせつ事件というのはどんな人の心の動きが関わっていたかというのを描くことに難しさを感じたということですか?

 

姫野さん:

 そうですね。

 

小島さん:

 そうすると、東大とかその人の生活環境なども細かく書き込まれているので、どうしても引っ張られますよね。

 

姫野さん:

 それは登場人物の生活や生い立ちに引っ張られてもらうのがいいんです。誰か特定の個人に引っ張られないようにするのが大変だったんですよね。

 

小島さん:

 小説を読んでいても繰り返し竹内つばさという学生の心の描写の中で、感情だとか割り切れないものや言葉にならないものとか人間の機微のようなものを切り捨て見ないようにし、自分はそういうものを抱えていないのだと思い込むようにし、効率的に面倒くさい思いをせずに生きていく能力がある人が東大に入るという描写が繰り返し出てくるんですが、なぜ繰り返したんですか?

 

姫野さん:

 竹内つばさという人はそういう人であるということですね。東大生5人による事件が起こったということが出てくる話なんですけれども、この本は一般のお話として出すわけなんですね。するとやはり一般の人が読んでストーリーを追えるようにするのが、小説が商品として売られる以上その工夫がいるわけです。そうしますと、竹内つばさという人はこういう人なんですということを一回書くだけでは分からないんですよ。一般的に多くの人はパッと分からないので、繰り返しました。

 

小島さん:

 架空の人物なんですよね、竹内つばさという人は。竹内つばさは東大に通っていて、竹内つばさは感情や割り切れないものを切り捨てていくという、つばさのことが書かれているんですけど、読まれ方としては「東大生ってこうなんだ」とか実際読んだ東大生は「こんなひどいこと書いている」と読んでしまう。このこと自体が東大の、記号として人の心をかき乱す力を表すと思うんです。たまたま架空の人物が東大に通っていて、たまたまこういう考え方をしているというだけでは読めないというのが興味深いですね。これは性欲故にやったというよりも学歴差別や階層差別、女性蔑視が背景にあるという描き方の中に、被害者である美咲という女の子の家族や日常、彼女がいい学校や勉強、白馬の王子さまをどう捉えていたか、自分自身をどう思っていたか、自分の欲望をどう扱っていたかものすごく細かく繰り返し描かれますよね。それが東大生の家庭とすごく対照的なんですけど、姫野さんとしては階層の違いや教育に対するまなざしの違いを描きだすと同時に、一般的に東大の方がいい家の子だと思われがちだけど、小説の中で繰り返し、美咲が見ている世界は良き家族であり、彼女が幸せな女の子であることを強調したかったんですか?

 

姫野さん:

 強調したかったというよりは、私が思う平均的な女の子を考えた場合美咲だったんです。普通の女の子。ところが、この本が出てから取材を受けたんですが、随分自分の思惑と違ったのは、美咲をいい子とおっしゃる人が多かったんですね。私はそれがすごく意外だったんです。私としては美咲はそんなに良い子とは思わないです。悪い子でもなく良い子でもなく、普通のずるいところもあったりミーハーなところがあってもしおらしいところがある普通の子だと思っていたんです。でも「中学校の期末試験が終わって帰ったら一人で残り物のご飯を温めて食べるというこんな善良で良い人」って言われた時に、それは私には当たり前で、家で一人で食べることが苦しいと感じる方がアブノーマルな感じがすると思いました。私が思う普通は、今の若い人には善良すぎた感じがします。そんなところに年が出るんだと思いました。

 

小島さん:

 何が普通かって難しいですね。東大に通うつばさにとっての普通と美咲にとっての普通ってすごく違いますし、そこはすごく具体的に描かれてましたね。私自身は両方わかってしまってですね、私自身は中高大とつながった私立で大学も受験していないので東大のすごさがよく分かんないですね。東大はすごいと世間は言いますが、どれくらい東大の入試が難しいか分からないし。センター試験も知らないので。だけど身の回りには東大を出た人がいて、そういう人たちが良い仕事に就いたり、「東大生と結婚するなんてお姉さんすごいわね」と言われたりするのを見て、なるほど東大というのは価値があるんだなと思うんですけど、東大のすごさがよく分からないんです。でもこの本を読んでいると受験戦争を体験した人からすると東大はどれくらいすごく見えるのか、東大のブランドを目にしたときにどれくらいざわざわするのか、というのが具体的に書いてあって、そういうことなんだと思いつつ、東大生の家庭で行われていることや交わされている会話に身に覚えがあって。私の父は一橋で、母は高卒でしたけど、姉は東大とインカレするような女子大出て東大生と結婚しているわけです。すると、すごく既視感でいっぱいで、つばさの気持ちもちょっと分かったんです。でも受験を経験していないし東大のすごさも分からないし自分のでた大学もすごいところではないので、何となく美咲のモヤっとした感じも身につまされたり美咲に向けられる眼差しも分かってしまったり。引き裂かれたんですよね。周りにもそういう人は多くて。実は東大生の気持ちもわかってしまった自分にげんなりして苦しかったり。美咲みたいにないがしろにされたことも思い出して辛かったというのも女性に多かったですね。どっち側に立つか立場を決められる人ってそんなに多くない気がするんで。島田さんにお聞きしますが、反響にはどういうものが多かったですか。

 

島田さん:

 実はこの小説をもらう時に滋賀県の共学の男女のほのぼのとした恋愛小説を描くと聞いてたんですよ。そしたら全然違って。最初はストーリーに引かれて単純に読みました。事件が起こるのは分かっていたので、どうして事件が起こったのか、スティーブン・キングの運命に絡め取られていく物語のようなサスペンスとして読んで、最初は面白かったです。でもだんだん嫌な気持ちになって。彼らがやったことを許しがたいのは当たり前なんですけど、ちょっと自分にもこういうのあるな、と。人を値踏みしてみたりとか女性に対するヒエラルキー的な見方とか。すごく自分に思い当たるところがあって。そういう人はかなり多いです。逆に美咲はなんでこんなに主体性を発揮しないのか、私こういう人大っ嫌いという女性の方もいました。高校の同級生だったら絶対友達になってませんとか。もちろん、東大の方で「こんな東大生なんていない」「なんでこんな風に描くんですか」というのもあったんですけど、みんな東大がこうだと思う人っていないと思うんですよね。例えば慶應でもいろいろ事件がありましたが、だからといって慶應生がみんなああだと思う人はいないと思います。逆に僕らなんか東大出身の知り合いが周りにいますけど、もちろんガリ勉して入った人もいる一方で、本当に地頭が良くて、こいつスポーツしかやってなかったのに東大行ってんじゃんみたいな人も相当数いるのを知っているわけで、だからこれ(=小説で描かれる東大生像)が全てだとは全く思わないわけです。姫野さんは「東大生」ということを考えて(登場人物の)人生を編んでいくわけですよね。小説なので(実際の事件の関係者とは)親族関係も全然違う。(主人公に)兄がいるとか、兄弟の会話がどうだとか、これは100%フィクションです。もちろん美咲の周りの家族関係も100%創作。

 僕はむしろよくこれだけ立体的に人物を描いたなあという部分にびっくりしました。僕は好きでしたがこれが嫌だったと言う人ももちろんいて、「姫野さんはこういうフェミニスト的な方なんですか」と。でも違うんですよ。この本にまつわるエッセーを姫野さんにネットで書いてもらったんですけど、姫野さんはそこでは性的な出版物や商品は容認できると語っている。それはなぜなのかというと、ちょっとジェンダー的な話にはならないかもしれませんが、つまりセックスというのは人格ではないので、愛する人を痛めつけることに異常な興奮を覚える人もいると。その欲望を解消するためにそういう出版物やビデオがあってもいいけれども、それを実際にやるとなるとばかでしょ、というのが姫野さんの今のお考えです。それはこの本のテーマにも通じるところがあるのかな、と僕は思いました。思ってても実際にやるのはばかでしょ、という。

 

(会場困惑気味の笑い)

 

姫野さん:

 あの、エロビデオを見て興奮するという(ことに関して私が書いた)のは、「エロい気持ちは尊敬する気持ちに反比例する」ということなんですが…

 

小島さん:

 …だいぶ違いましたね。

 

島田さん:

 だいぶ違いましたね(笑)

 

(会場笑い)

 

姫野さん:

 もし反比例しなかったら、例えば若い学生とかはマザー・テレサを見てオナニーできるのか、と、そういうことになると思うんですよ。…あ、中には、してらっしゃる方もいるのかもしれないですけど。

(会場笑い)

 だから、尊敬は必ずしも性欲にはならない、ということを書いたんです。

 

小島さん:

 だいぶ違いましたね、はい。今のは、「島田さんが悪かった」ということで(笑)

 えーとまあでもその、なんでしょうね、あの、人が学歴にすがらなければならないいろんなコンプレックスを抱える中で、その偏見にはどのようなものがあるかというのをフィクションとして細かく描き込んでいく時に、やはり「東大」という記号が入ることで読む人の心をすごくかき乱す。そういう機能を持つものとして「東大」という言葉が使われているのだろうなということを今理解しました。

 中にはね、これを東大生を悪く言おう、東大のイメージを貶めようと思って書いていると思っている方、つばさ君みたいな人を描いてしまったら東大生がみんなこんな人だと思われるじゃないか、と思う人もいるのかもしれませんが、フィクションの中に登場するたった一人の東大生のイメージが自分にも影響するんじゃないかと不安を抱いているその状況自体が、その人が普段「東大」というブランドにどれだけ抑圧されていると感じているかを表しているな、と思います。

 瀬地山先生はゼミの学生さんにこの本の感想を聞いたり、実際に学生さんとどう思うかを話されたそうですが、ご自身がこの本についてどう思ったかというのと、学生さんの反応を伺ってもよろしいですか。

 

瀬地山教授:

 全然こちら側の角度からお話ししてしまうことになりますが、私自身は東大の1、2年生相手にジェンダー論の講義を持っていまして、4、500人教えてます。東大の講義というのは、いくつあるのか知りませんが、1万か2万かあるのかな、その中で、一番女子学生が多い授業を担当しているはずです。同時に私にとって性犯罪の防止というのは、最も重要なコミットメントの一つで、もちろんそういう犯罪を起こさない、あの…起こさないというのは…すみません、標準語である関西弁に戻します。

 (性犯罪の防止は自分にとって)ものすごく強いコミットメントの一つだと私は思っていて、このような事件が起きたことについては責任を感じます。また最近強姦事件が起きていてですね、一応東大生の6分の1くらいは出ている講義なので、ちゃんと(私の講義を)受けてくれていたらこんな事件は起こさないはずなのに、という思いはすごく強く持っています。後は、今日もついさっきまでやってたんですけど、2年生から4年生が参加するジェンダー論のゼミを受け持っているのと、大学院でも同じようなことをやっています。2〜4年が参加するゼミで(『彼女は頭が悪いから』を)読みました。そうしたら、この本に対してかなり強い批判が出てしまったんですね。これはちょっと紹介せざると得ないかなぁと。だから、この(批判が出たという)ことと、私自身がどう考えるかということの折り合いをどうつければいいのかを私自身まだ考えている最中なんですけれども…。

 この小説では、実際の事件の描写に入る前に、かなり長くつばさ君と美咲ちゃんの生活の描写があるわけですが、ここで描かれる東大生の描写が、ほとんどリアリティーをもって読めなかったんですね。それは、ハードなファクトでおかしなところが少なからずあったところが要因の一つではあったわけですが…「ラブレター手紙で出すやつなんかいませんよ」と言われました。それは年齢の問題かもしれません。それから「東大の女子は1割」というのはファクトとして違うので…現在は2割ですね。「理Ⅰの数学の入試問題が他の学部に比べて素直」っていう文言は、理系はみな同じ問題を解きますし、文系も6題中4題が(小問を多少いじってあるだけで)理系と同じものを解きます。だから、こういうところに、なんでこんな(ファクトと違う)話が出てくるのかが分からないわけですね。それから、学生さんから強く言われたのが、「三鷹寮広い」というもので、これはふざけるなと。

 えっと、「あれを広いと言えるならどんなところに住んでんねん」という。本当に劣悪な環境で苦学生が住んでいるところなので、あれに「広い」という言葉を当てるのは想像を絶することなんですね。

 それから、「理Ⅰに入ったら女子カードが2枚くる」というのも、これ理Ⅰの9割キレると思いますよ。ありえないことなので。あの、理Ⅰって正式名称ご存知ですか?あれ正式には別の名前があって、「東京男子短期大学」って言うんですよ(笑)。それくらい女子の少ないところで、理Ⅰに入って女子カードなんで絶対来ないんですよね。その辺のディテールのレベルで、ありえないことがいくつも書いてあると。

 そこから、最終的には(つばさが)「ピカピカツルツル」だとか「挫折感がない」とか「屈折していない」というところが僕や学生さん含め一番違和感を感じるところなんです。「引け目を感じたことがない」とか。

 つばさは麻武という、麻布と武蔵を組み合わせた名前になってますが、そういう学校から来ていることになっていて、それならば真ん中から下の(学力の)人が東大に入るわけですよね。あんなやつでも東大入るのかという世界ですよ。

 

小島さん:

 つばさ君のお兄ちゃんが「麻武」ですね。つばさ君は「横浜教育大学附属」です。

 

瀬地山教授:

 ああ、そうでしたねすみません。まあいずれにしろ、そういう高校から来る人って、真ん中くらいまでが来ますから、引け目を感じずに東大なんか来られないはずなんですよ。それから、入った時にある種の達成感があったとしても、五月祭終わったあたりからテスト勉強が始まり、付いていくのに苦労するはずなんですよ。しかもこの小説、試験の話と進振りの話が一切出てこないんですよ。これは東大生にとっては、やはりなぜ試験と進振りの話なしに3年生になったという描写ができるのかが読めない。

 

小島さん:

 それぐらいみんな大変な思いをするということですね?

 

瀬地山教授:

 そうですね。そこで挫折感もなく3年生になれるというのが「すみません、よく分からない」というコメントだったわけです。で、ゼミに出てきた女子学生で、「(この小説は)東大生をひとまとめにしておとしめること以外には成功していない」と言う人もいました。つばさを「ピカピカツルツル」としてのっぺらぼうに描いてしまったことで、東大生からは読めなくなってしまっているじゃないかという気がしました。

 むしろ実際の事件の犯人は屈折していて、「ピカピカツルツル」では全然なくて、東大の中では落ちこぼれていて、その代償行為としてこういうことが行われているのではないかという気がする。これを読んでいる感じでいうと。それをピカピカピカピカと言っているので、そういう感じではないんだけどな、と。

 

小島さん:

 東大の中で人からリスペクトされていなくて、コンプレックスにまみれているので、外の人間に対して東大ブランドを振りかざすと。

 

瀬地山教授:

 はい。東大という肩書きが効くのはそういう外の空間だけになるわけですよ。中ではそんなもん全く効かんから。

 

小島さん:

 だから相当挫折とかがあるはずだと。

 

瀬地山教授:

 そう、そう。そうです。そういう描き方をしないと、東大生は残念ながら自分の問題として読めなくなってしまうのではないかな、と思いました。ゼミに出てた学生さん含めて、みんなが言ってくれた意見はだいたいそんな感じでしたね。

 

小島さん:

 瀬地山さん自身も東大で学ばれて、「東大」というブランドにさらされ続けるのはやはりしんどかったですか?

 

瀬地山教授:

 いや、ブランドどうのこうの以前に、3年生から勉強に付いていけなくて、大学に行けなくなりました。

 

小島さん:

 世間はブランドのことばっかり言うけれど、お前入ってみろと。どれだけ大変か分かってるのか。東大生やってみろよ、と。そういうことですか。

 

瀬地山教授:

 いや、だから、こんだけ能天気に過ごしているのはちょっと理解できないなと。

 それから、「偏差値と親の年収は相関する」というような記述がポロっと出てくるんですけど、例えば医学部でみたら偏差値と親の年収は逆相関するでしょうし、あと「東大生の親族には東大生が多い」みたいなね。(東大は)そういう収入と血統で入るような空間じゃないんですよ。収入と血統とで入って、順調にいくような空間でも全くなく。もっとガタンガタンと(いろいろなことに)ぶつかっていくはずで、相当な劣等感があるように思えるんですよ。犯人像が。それを「ピカピカツルツル」というのはちょっと違うんじゃないかな、というのがさしあたり今日一番お伝えしておきたかったことです。

 その一方で東大生への性犯罪についての教育をどうするかというのはもう一つ別の問題なんですけど、この本が東大生に対する教育に使えるとは思えなかったというのがゼミでの話でした。

 

小島さん:

 それは共感できないからということで。

 

瀬地山教授:

 はい。

 

小島さん:

 姫野さん、途中でふうぅと言ってらっしゃいましたけれども…

 

姫野さん:

 はい。あの、三鷹寮って、本当に刑務所って言われているんですよね?それで…三鷹寮が広いというのは、あの、「戦前の建物(=駒場寮)より新しい」という意味で、敷地が広いのかな、と思って書いたということでして。

 

瀬地山教授:

 水回りとかご覧になりました?

 

(会場笑い)

 

姫野さん:

 中で暮らしている人は大変で、こんなんで広いと言われたらかなわん、というのはあるとは思いますけれども…どうもすみませんでした。

 でもね、私、今日、最初、待合室で、瀬地山さんに会って…この人怒ってはんねん。挨拶しても怒ってはんねん。小島さんが「この辺に娘が通ってる保育園がありました」って話をした時も、その「保育園がある」ということにも怒ってるように見えんねん。

 なんでこんなに怒られるんやろと思って、今、そーっと痛み止めの薬を出しました。

(会場笑い)

 でもそのままつるんと床に落ちて、飲めんようになってしまいました…。で、ほんとどうしようと思って、今、瀬地山さんの話を聞いていたら、三鷹寮の誤解は「戦前の建物やない」ということやったんですけれども、そこに怒ってらっしゃるのであれば悪かったなとおもいます。

 

瀬地山教授:

 どこの大学が今戦前の建物を使ってますか。

 

(会場笑い)

 

島田さん:

 京大ですかね…

 

姫野さん:

 でね、こういうところ、こういうところ、すごい挫折の連続だったんです、ということを今聞いて、私は、「ああ、この挫折が東大や!」思うた。

 この、瀬地山さんのような挫折が、私のような一般の者ができひん挫折よ。

 

小島さん:

 うーん、それね、難しくて、東大生の挫折が一般人から見ると「それは高級な挫折だ!」みたいな話になると、東大生からすると、ほら、「痛みは等価で無二」だからさ。東大生も一回きりの人生を生きていて東大生なりの挫折を味わって、もしかしたら死にたいとか思っちゃってる人にとっては、「お前は東大生だからお前の痛みには価値がない」と言われるのはひでえじゃねーか、と言いたくなる気持ちもちょっと分かる気はする。

 

(1秒の沈黙ののち会場笑い)

 

姫野さん:

 東大に入って、入ってから挫折するというのは、それは…

 

瀬地山教授:

 いや入る前から挫折してますよ。そんなん進学校におったら。

 

姫野さん:

 それがもう、普通の人にはできないことじゃん。私の頭ではできないことですよ。

 

小島さん:

 じゃあ、東大生からしたら普通の挫折だと思っているようなことも、世間的にみたら「あんたそれ高級な挫折ですよ」と思われるということも、東大生は分かっておいた方がいいんですかね?

 

姫野さん:

 いや、分からなくてもいいとは思いますよ。でも、東大に入る人というのは…「竹内つばさ」という人はこういう人だったかもしれないですけど、島田真が言った通り、これを見て「ああ、東大生ってみんなこうなのか」と思う人っていないと思うんですよ。

 

小島さん:

 まあ正直、「えマジで?三鷹寮広くないの?じゃあ全然違う小説じゃんこれ」という人はいないと思いますけどね。

(会場笑い)

 東大生にとって共感できないというのがネックになっちゃったのはね、確かにもったいないと思いますけれども。これは(私自身は)経験ないですけど、もしかしたら東大の外からみたら東大生の痛みなんて全然甘っちょろいと言いたくなるかもしれないし、東大の中にいる人からしたらこの地獄のような勉強を経験してない人から「甘っちょろい」なんて言われるのは冗談じゃない、って思うとなると、本当に議論が平行線ですよね。自分の人生しか生きられないからねー…。本当にだから、誰が正しいとは言えないんだけども。

 

瀬地山教授:

 言葉を費やしてもらえるとしたら、姫野さん、何が違いますか?挫折に2種類あるとして。

 

姫野さん:

 だって…すごく優秀じゃないですか。東大、優秀な大学なんですよ?皆さん、ご存知とは思いますが、優秀な大学なんですよ。その優秀な大学に入れるってことで、もうその人優秀なんですよ。頭は。入れなかった者より優秀なんですよ。だからと言って、頭のいい人には何の感情もないと言われているように(小説を読んで)思ったというところが、東大生の挫折だと感じたということなんですよ。

 あの、それ…優秀な人は、感情がない、ということでは、ない。(なのに小説で)感情がない人のように書いてあるというふうに感じることが、東大生の挫折だと。

 

(2秒の沈黙)

 

瀬地山教授:

 …んんんんんんん〜〜〜〜?

 

小島さん:

 あの、じゃあ、林先生、一言。

 

林教授:

 私も、東大で教えていて、東大生が挫折するといった東大生なりの悩みを知っていると思います。で、なぜ挫折するかということを考えてみたいと思うんですね。東大生の挫折が他の人と同じか違うかみたいな議論は意味がなくて。東大生の挫折って、じゃあ入る前、エリート高校にいる時から挫折しているというその重し、その記号、それは誰が作っているんですか、と。私はいつもこう聞きたいんですね。

 私自身も東大の教授で、東大の教授って「知らない」って言えないみたいなプレッシャーを感じることがあるんですよ。私は「知らない」って言うんですよ。そうすると、「お前そんなことも知らないのか東大の教授のくせして」と言われることがありますよね。面と向かって言われたこともあります。「女の教授だからか」とか、いろいろ言われたことがあるんですけれども。「そんなことどうだっていい」と自分に言い聞かせながらも、やっぱり「東大」という記号が襲ってくる。でそこで挫折感が加速度的に重くなっていく、そういうことは必ずあると思うんです。

 でもそれは、振り返って、突き放して見てみると、その記号は誰が作り出していますか、と。私は、東大というだけで周りに頭がいいと思われるという(社会の)みんなで合意している現象を、細かく見ていくと、「弱い東大」が見えてくるはずだと。今日は冒頭でお話しました通り、その弱さから出発して強くなっていくことが東大には必要なんじゃないかというのが私の言いたいことで、姫野さんの小説をわざわざここで取り上げたのは、三鷹寮の話も、もちろん、あるとは思うんですが(苦笑)、そうではなくて私たちの「東大」という記号をもっともっと脱構築といいますか、誰が作っていて、誰がそこに乗っかっていて、誰が挫折するか、それは、東大生だけじゃないですよ。日本の社会全体(の問題)なんです。そこを、もっとみんなで議論してもいいんじゃないかと思うんです。

 

小島さん:

 例えばね、テレビで、「早稲田王」というクイズ番組はないんだけども、「東大王」という番組はあるとかね。あるいは、「学力」というたった一つの評価(基準)で人々の人生が18歳の春とかで決まってしまって自分はそこでふるい落とされちゃう、というとこからくる怨嗟がですね、「お前そこで上り詰めたんだったら人よりできて当たり前だろ。たった一つの基準で人がふるい落とされるようなシステムの中で勝ち残ったんなら多少ひどく言われても甘んじろよ」という気持ちを生んだりするのかもしれないですね。

 

林教授:

 あと一つなんですけど、そこで東大の女子学生さんが「私たちに対する誤解を生むような小説には意味がない」というのは、そうかもしれないですけど、それならば、そういう記号とは違う自分たちをもっともっと発信していく(ことが必要だと思う)。誰がその記号を作っていて、誰がその記号で得しているのかというと、すごくマスキュリンな「男性の東大」だと思うんですよ。

 そこを、だから、東大の挫折と東大以外の挫折を分断させるのではなくて…「東大の挫折」はずーっと社会とつながっていると思います。

 

小島さん:

 今話しているようなことは、パネルディスカッションのテーマと地続きだと思うんですけど、一応ここからパネルディスカッション、です。

 で、今日はですね、大事なことなので一度ここで時間を取って、大澤さんに性暴力事件の背景にあるものは何なのかをご説明いただきます。一部の変な人たちだけでなく、もしかしたら私たちの中にもそうした性暴力の背景にある何かが眠っているのかもしれない。私たちが無知であるがゆえにもしかしたらそうしたものが野放しになってしまっているのかもしれない。そうした点も含め、ちょっとちゃぶ台返し女子アクションがどのような活動をしているのかをご紹介していただきます。

 

大澤さん:

 みなさん、こんばんは。今いろいろ議論があったので、ここからは一般論、一般知識として聞いていただければと思います。お手元にこのような小冊子があると思います。部数が足りなかったので、ない方は申し訳ないのですが、後で団体のウェブサイトに載せるのでよろしくお願いします。私たちは、一般社団法人ちゃぶ台返し女子アクションと聞き慣れない変な名前かと思うのですが、もともとは性に縛られずにあらゆる人が自分らしく生きられる社会を目指している市民団体です。特にいま注目しているのが性暴力をなくすための性的同意を文化として根付かせる活動をしています。性暴力が起こってしまう背景の、同意とは何か、何がイエスで何がノーなのかというのを理解していない、同意のない性行為は性犯罪であるという認識が、日本の性教育では伝わっていない、社会においてもしっかりと伝えられていないという状態を問題視して、性的同意について注力しています。

 私たちは性的同意をワークショップ形式でいろいろと教えていまして、大学生の性暴力事件が相次いでいるということで、ハーバード大学やオックスフォード大学とかで使われている同意ワークショップを参考にして、日本向けに試行錯誤してやってきました。ワークショップでは、ロールプレイをよくやっているのですが、よくありそうなシナリオとしてA子とB男がいて、付き合っていないけどもB男のことが好きなA子という2人が出掛けて、帰りにB男が家に誘って無理やり性行為をするというシナリオなんですけど、そこで結構大事にしているのが社会の声を大事にするということで、ロールプレイをするときにA子とB男のせりふだけではなくて、それぞれの頭の中にある、例えばA子の母親・友達の声とかB男の先輩・友達・父親の声だったりとかいうのを、こうあるべき、例えば家に連れていって何もないなんて男として情けないとか、ぐいぐいいくのが男らしさなんだとか、相手の期待に応えるのが女性として良いことなんだ、というような声を直接演じてもらうことによって、性暴力の背景にあるジェンダーロールや男尊女卑の考え方がどういうように影響するのかということをやっているんですよね。

 今回の小説の中でいろいろと丁寧に、つばさ君や加害者の今までの生い立ちとか実際どのように考えてきたか描写されていましたけども、まさにそれが社会の声としてロールプレイで私たちがやっているものだなと読みながら思っていて、それが東大生同士なのか、東大生と他大生なのかでそこに出てくる社会の声が違うのかなと思っていて。ちなみにこのロールプレイは実際に何回か東大で学生とワークショップをやったことがあるんですけど、そこでは東大でやるからこそ女性側の声を「東大女子はここでチャンスを逃すと次いつ良い人に会えるか分からないから」という声を入れてみたりとか、実際にその大学の文化だったりとか社会的な声が内面化されているのか、自分たちの頭の中にあるのかというのを振り返るのがすごい大事なのかなと思いました。

 今日お手元にあるハンドブックも、同意ワークショップとかでやっている内容を分かりやすくまとめた冊子でして、セクシュアル・コンセントって何なのか、性暴力って何なのか、その裏にある人々のパーソナルスペースだったりとか、自分の身体だったりとか性的自己決定権というものがどういうものなのかを丁寧に解説したものになっていて、大学生に配っているのですが、大学生が中心となって、知っておいてほしい知識として配っています。

 ちょっとその中で抜粋して、セクシュアル・コンセントとは何かについて説明したいと思うのですが、私たちはセクシュアル・コンセント、性的同意というものを「全ての性的な行為において必要とされている積極的な参加の意思表示」というように定義しています。すごく大事なのが、一つ目はいつでもNoと言える状況におけるYesであるということ。単にYesと言ったからそれは同意であるというのではなくて、Yesと言わざるを得ない状況でなかったかどうかということをしっかり見ることが大事であったりとか、後は(二つ目は)対等性ですね。あらゆるところで支配関係や上下関係は見られるので、相手が目上だったかとか、相手が体力があって力づくで何かできるかとか、そういった地位や関係性、格差によって影響されていないかということも同意を考える上で重要。なので、対等な関係を築ける知識、対等な人間関係とは何かということをそもそも知っていなくてはいけない、そういうことをしっかりと学んでなくてはいけないということがとても大事になるんだと思うんですよね。最後三つ目の非継続性というものは、これは小説の中でも結構出てきてるんですけども、家に行ったからとか、前にその人と関係を持っていたからといって、性行為や性的な行為に同意しているわけではないということがすごく重要。つまり(非継続性を考えないと)一つの行為にOKしたから全ての行為がOKになる、黙示の関係になってしまうので、小説の中でも主人公の美咲さんに対するバッシングとか、家に付いていったからとか、もともと関係があったからとかという声があったりとか、後はその加害者が動画を撮っている時も下着が派手だったからこんなの見られたいと思っているに違いないという考え方って、まさに3番のやつに当たるもので、それは結構皆さんがよく聞く被害者バッシングの言葉「家に行ったから」「飲みに行ったから」「車に行ったから」「キスをしたから」「そんな服装をしてたから」とかそんなことにまさに通じているんじゃないかと思います。

 同意において私たちがすごく大事にしているのは、アクションを起こす側に同意を得る責任があるということなんですね。どういうことかというと、「被害者がどうしてちゃんと断らなかったの」とか「なんでもっと抵抗しなかったの」とか言われることがすごく多い。でも実際恐怖やショックで体が動かなかったりとか、相手が目上だったりとか、関係性によって強く拒めなかったとか、いろんな事情でNoと言うのが難しい。だからこそちゃんと断ったかどうかではなくて、アクションを起こした側が相手の同意があったということをしっかり確認して相手の意思を尊重したということがすごく大事になってくるんですよって言っているんですけども、これまさにセカンドレイプをなくすためのすごく重要なポイントで、性暴力をなくすためにどういうことができるのかでよく議論されていることで、被害者が自分の身が守るとかはっきりとNoと言うとか(という意見が出ること)は多いと思うんですけど、本来はアクションを起こす側に責任があるから、相手の意思を確認するということを当たり前にしていくということが、根本的に(性暴力を)なくしていく上ですごく重要なのではないかと考えています。

 もう一つ私たちが大事にしているのが、加害者が同意とかをしっかりと理解していって加害行為をなくしていくっていうのは重要なんですけど、周りがそれを見て見ぬ振りしない、実際の事件においてはもう1人女性がいたりとか、あるいは5人の中で本当にやばくないのかって思わなかった人がいなかったのか、そういったところもつながってくるんですけど、見て見ぬ振りしないとか、周りにここで自分が何か言ったら空気読めないやつって思われるんじゃないかとか、そういったことで助長される、加担するっていうことが性暴力では起こり得るので、どういう風に介入できるのか、これは第三者介入っていうんですけど、これも結構海外とかでやられていることで、第三者がどうやって介入することで性暴力をなくせるかっていう取り組みも私たちもやっていて、すごく効果的な性暴力をなくすための方法として用いられています。

 やっぱり予防教育、今までは個人が何をできるかだったんですけど、大学として組織として予防教育をしていく、性暴力をなくすためにどうすれば良いかっていうことを取り組んでいくことも大事ですし、実際性暴力被害が起こったときに、しっかりとそれを訴えられたりとか、セカンドレイプされずにしっかりと被害者が保護されるっていうような両方の体制が必要になってくるっていうのもあるんじゃないかと思っていて、私が(どうして)ここに呼んでいただけたかというと、東大をはじめいろんな大学で大学生が主体となって自分の大学から性暴力をなくすための活動に取り組んでいて、実際にこのハンドブックを授業とかで配らせていただきました。制度を変えるために、例えば来年の4月にオリエンテーションで同意について新入生に教えられるようにするとか、ちゃんと処罰されるような制度を作るとか、そういった制度的な変化に向けて学生が活動していったりしています。

 何だか説明っぽくなってしまったのですが、なぜ性暴力が起こるか、なぜ性暴力が助長されてしまうのかという背景にはセクシュアル・コンセントという概念がすごく鍵になってくるということで、私たちはもっと多くの人に知ってもらいたいし、なぜセカンドレイプが起こってしまうのかということも小説で描かれていましたけども、その背景としても同意っていうものが何か理解するっていうのもすごく重要なのかなって思っています。

 

小島さん:

 ありがとうございます。今週金曜日(2018年12月14日)からちゃぶ台返し女子アクションのサイトで、このセクシュアル・コンセントの小冊子がデータでダウンロードできるようになりますので、今日お手元に紙の冊子がない方もご自身でダウンロードしてください。ツイートなどもできるようですので、ツイートやFacebookの投稿などで周りの方とシェアしていただければと思います。

 ここからは、先ほどの議論の続きというか、既にパネルディスカッション的な話になっていたのですけども、今の被害者バッシングの話で奇妙だなと思ったのが、小説にも出てきますけども、東大に通っていたり東大の関係者が「東大生の人生を台無しにした勘違い女が」と言うのは百歩譲って分からないでもないが、ネットの空間だと東大生でもない東大当事者でもない、しかも匿名の野次馬的な人たちが、しかももしかしたら普段は「東大生なんて調子に乗っているよな」というように東大という記号を面白おかしく消費しているかもしれない人たちが、なぜこの強制わいせつ事件の時には「勘違い女」「ざまあ見ろ」というような罵詈雑言を被害女性にぶつけたのかということですよね。とても興味深いですよね。まるで自分が東大サイドであるかのように、東大というものの価値をすごく大事にしているかのような眼差しを(被害女性に向けて)、そういう立場から女性に対して「お前みたいな勘違い女が、東大生に気に入られようと群がった女がこんな目に遭ったって当然じゃないか」「あんたみたいな女がいるから、それは自業自得じゃないか」と言うことがなぜ起こるのか。この辺りを姫野さんは描きながらどうお考えになっていたのですか?

 

姫野さん:

 不思議ですよね。

 

小島さん:

 不思議ですよね。

 

姫野さん:

 不思議ですよ。

 

小島さん:

 そんな言わば、瀬地山さんが言うところのイエロージャーナリズム的にですね、東大スキャンダルを面白おかしく消費する人たちのモチベーションとしては、東大を悪く言われれば言われるほどすっきりするはずなのに、なぜそこで「東大を台無しにしやがって」とくるっとひっくり返って立っちゃうんでしょうか。瀬地山さんどう思われますか?

 

瀬地山教授:

 そこまでは私が答えられるかは分からないんですけど、要はセカンドレイプが起こるケースっていうのは、何かその女性に追い打ちをかければ良い訳ですよね? その追い打ちをかける時の口実に使われたっていう程度だと思うんですよ。つまり追い打ちをかけるネタとして、都合の良い論理になったのではないか、というくらいにしか、ちょっと分析をしろと言われてもよく分からないですけどね。

 

小島さん:

 小説の冒頭でも出てくるし、何回か繰り返し出てくる「勘違い女」。何なんだその勘違いって…林さんはどう思われますか?

 

林先生:

 私はメディア研究をしているので、ネットの書き込み空間っていうのは圧倒的に男性の空間なんですね。そこがニュートラルだっていうことはないです。すなわち、そこには男性の意見が非常に強く反映されていて、非常に極端な意見がどんどん先に出ていきますから、そういう意味で、ホモソーシャルっていう言葉が小説にもあったのですが、それのさらに助長した空間がそのネット空間で、そうした言説がますます元気になっていくっていうことだと。それはかなり説明として大きいのではないかと思います。

 

小島さん:

 じゃあ、女性が全員「東大生ってひどいよね」「美咲ちゃんってかわいそうだよね」って思ったかということも、これも私が知りたいんです。どうなのかなぁって。つまり、その人が男性であるか女性であるかということはもちろん影響すると思うのですけど、私なんか男性と対等に働きつつ男性優位社会で甘い汁を吸う「女子アナ」ってやつを15年もやってきたんですけど。

(会場笑い)

 すごくハイブリッドなんですよね。女子アナ的なロールをやっておけよという自分がいるんですよね。だけどふざけんな女子アナとかいうロールを着せてんじゃねえよっていう自分もいて、すごく引き裂かれている。だから、勘違い女って言っちゃう人はひどいなって思うんですけど、言いたくなっちゃう気持ちもどこか分かっちゃう。女性か男性かというよりは、何なんだろうな、男女ではないと思うんですよね、嫌悪したり憎むべきものだと思っている学歴至上主義的なものとかブランド主義みたいなもの、でもどこかで羨望があったり、自分が強者の側に立てるときには立ってみたいっていう欲望があるのかな。でもその欲望が誰によって植え付けられたのか、いつどんな形でそれが内面化したんだろうか。読めば読むほど、すごく自分の見たくないものを見てしまったんですよね。

 

姫野さん:

 私も書いてて嫌でしたね。

 

小島さん:

 姫野さんにも分かっちゃう気持ちがあったんですか?

 

姫野さん:

 すごい、竹内つばさって自分だと思うんですよ。加害者全員、ここに書かれている譲治も、嫌な人って書かれている登場人物って、自分だと思うんですよ。自分だと思うし、書いている時って登場人物って勝手に動くんですね。美咲を見ていると「なんでもっと勉強しないの?」とも思うんですよ。こっちが一生懸命勉強している時に、ダラダラダラダラしているって思うから。慶應付属高にお金持ちで行ったジジイって呼ばれていた人たちを怒る気持ちとかもホンマやなと思ったり、ずーっと子どもの時から慶應で慶應(大学)卒って学歴詐称じゃないかっていうこの人の気持ちも…

 

小島さん:

 つばさ君が慶應蔑視をしているっていうくだりね。

 

姫野さん:

 そういうような気持ちとか、全部そこに書かれている嫌なものっていうのは、全部自分が持っているものなんですよ。だから、書いているとものすごく嫌だったんですよ。書いている間中会う人に「顔色が悪い」って言われたんですね。すごく嫌な気持ちで。だから読む人もすごく嫌な気持ちだと思うんですね。でも読んでしまうのは、できものとかニキビができた時に、放っておきなさいって言われても気になっていじってしまってまた膿んでしまって、放っておけば良いのにまた余計に見てしまうような気持ちになっていくんですよね。だから、そういうふうな汚い、嫌なものっていうのは、全員が持っているんじゃないかなと思います。

 

小島さん:

 私もそう思います。ただ、それで言うとね、東大生の立場からすると「お前だってそういうドロドロしたものを持っているのに、東大に入っている人間に全部着せるなや」って思いますよね。東大生であるからそうしたドロドロを全部背負いなさいみたいにね、東大の悪口を言っている人間の中にだって、その悪口を言っている東大的なるものがあるはずなのに、自分はまるで身ぎれいなような顔をして、東大に入ったのだから、東大に入ったお前が汚れをやれと言うのは理不尽な気持ちがするのかと。だから、もしかしたら瀬地山さんのゼミの女子学生の方がおっしゃったという、集団としての東大をおとしめるという目的なのではないか、そうした効果しかなかったのではないか、どこか被害者というか自分たちだけが被せられている理不尽さみたいなのをお感じになるかな。でもそんなのは口にした途端「何だよ、東大生勝ち組のくせに被害者面かよ」とかって言われるって分かってるから言えないですよねぇ。それは、出しどころがないのはかわいそうかなぁという気がするので、それでいうと香里先生が言っているように東大の弱さをさらすっていうのはそのことで、東大生の感じている、世間からバッシングされるであろうけども実感としての理不尽さというものを言語化するというのは、一つありなのかなぁという気がするんですよね。だって、メディアはあまり面白い話じゃないから報じないじゃないですか。

 

林先生:

 私が言いたいのは、加害者が誰かですよね。だから、そういうことを言われてそういうふうにおとしめる小説だという結論だとしても、小説を責めるのは違う気がするんですよね。そうじゃないんですよ。私たちが戦うというか、もっと良くしていこうって思う相手は、小説じゃないんですよね。小説は非常に重要なきっかけで私たちにテーマを与えてくださったと。それを今度は題材に私たちが議論をして、ここに何か問題を見つけるっているのはあって良いんじゃないかなって思います。それで…

 

小島さん:

 あ、島田さん、もし何か…

 

島田さん:

 すみません、先ほどの話、瀬地山さんのご指摘良いなぁと思ったんですけど、これ小説のリアリティーっていうことはいつも視点が要ることであって、私の知り合いの警察官とか医者は、絶対警察小説読みませんとか、医療小説読まないっていう人がたくさんいて、それはどうしても小説家の方は1人でいくら話を聞いて書いても、世界の空気までも完全に再現するっているのは、ノンフィクションじゃないので目指してませんし、その小説家の体をろ過して出てきたものでしかないということなんです。そこにいる人から見るとどうしても違和感を感じるんだけど、逆にいうとさっき姫野さんが「東大生に向けて書いたものではない」って言ったことは言い訳でも何でもなくて、一般の人たちが読んだときにさらに事実を超えたリアリティーみたいなもの、例えばこういうふうに行動するだろうなとか、そういうリアリティーを感じさせるのが文学作品としてはすてきだと思っているので、瀬地山さんがおっしゃることはよく分かるんですけども、これはそういうふうな読み方をされるテキストではないと思っているっていうのが一つと、もう一つ、私たちは東大でも何でもないんですけども、自分の大学でこれが小説になったときに、「わあ、こんなの全然違う、読めない、嘘ばっかりだ」というふうには思わないと思うんですよね。そこがちょっと東大らしさっていう断定はできないんですけど。

(会場笑い)

 

小島さん:

 ファクトを大切にする人が多いのかな?

 

島田さん:

 僕はそうは思わないので、それをネガティブに言っているわけではなくて、それを自分のことのようにしっかりと本を読む、それを自分の知っている人であるかのようにちゃんと読む、そんなに知らないよ関係ないよで終わっちゃうところをきちんと読まれているところはすごいなっていうことを逆に言いたい。

 

小島さん:

 あの私、島田さんの話を聞いていて思ったんですけど、それならファクトにこだわるところがいかにも東大生らしいよねっていうところは、東大の人にしてみたら、香里先生のおっしゃるようなことに置き換えて考えてみると、要するにこの小説で何が語られているかっていうその文脈とか、その小説が書かれた動機だとか、その小説が自分の心に何を起こすのかというところを読むのではなく、三鷹寮が広いか狭いかということを読み、「お前、三鷹寮が狭いことを知らないなんて馬鹿だろう、馬鹿の言うことなんて信じねえわ」っていう心性…

 

瀬地山先生:

 いや、それは違うん…

 

(会場笑い)

 

小島さん:

 東大生が、じゃないんです。そういう心性にさらされて嫌な目に遭うことってあるじゃないですか。それは東大生が言うかどうかじゃないんです。だけど私たちが普段働いてたり、人とコミュニケーションしているときに、大事な話をしているのに、大事な話をしている途中で「いや、いま数字が違ったよね、この数字が違うことにも気付かない馬鹿の話なんか聞けないね」っていうような扱いをされることってあるでしょう? それをやる人が東大生なのかどうかじゃないんです。そのような形で人の口を封じたり、人間をランク付けする眼差しにさらされて嫌な思いをすることってあるじゃないですか? で、それを誰がやるかっていうのを、東大生にやらせるとすごく納得感がある。すごくコンテンツとして成立しやすいから消費されている、そして東大生としては大迷惑かもしれませんが。私たちはそのような眼差しに、いつどこでどんな形でさらされるのか、その眼差しはどこからやって来るのかということは、まさに林先生がおっしゃるように考える価値があると思いますし、それを全部「東大」っていう固有名詞で置き換えて東大におっ被せたら、まあ東大叩きをしていれば良いやっていう溜飲を下げて終わるかもしれないかもしれないけれど、世の中は変わらないですよね。だから何に苦しんでいるのかというところに考えが至らないかなって今の島田さんの話を聞いていて思ったんですけど。大丈夫だったかな?

 

瀬地山先生:

 なんか、劣等生の屈折した醜さっていうふうに語ってくれたらもう少し読めたという気がするんですよ。やっぱ優等生に読めるところがちょっと違うなっていうところです。だから、引け目を感じたことがないっていうところがあるわけですけども、いや、だからやっぱり、三鷹寮広いはどうでも良いならどうでも良いんですけど、そういうのが、細部がどうっていうわけではなく、それがものすごくたくさんあるんですよ、読んでいくと。だから入り込めないんです、学生さんが読むときにね。それはそうだったんだろうという気がするんですよ。

 で、そこで繰り返しになってしまいますが、割と挫折なくきているっていう描写があり、これはもう挫折をしているっていう屈折の醜さの表現であるはずなのに、ここが記述されない分だけ、飲み込めないものになってしまったんじゃないかなって。で、そこをだから、挫折の醜さがあるからこそ、東大というブランドの醜さがきれいに出るはずなのに、何かすごくそれをピカピカに出し過ぎているような印象が私にはあります。

 

林先生:

 そうやって、いろいろと挫折している東京大学の学生さんがいらっしゃることは分かるのですが、その小説がだから入り込めなかった、何でこんなモチーフで書いたんだっていうことは、まあ一つ。しかしながら、いま今日トークやってよかったなと思うんですが、姫野さんが一般の人が入り込めるように、一般の人がストーリーを追えるように書いたと。私たちが何となく東大生ってツルッとしているよねとか、オッケーねっていうふうに理解しちゃうんですよね、外から見ると。それなのに、それなのに挫折があってって、じゃあ何で外からはスルッとそういうことが飲み込めてしまうのかっていうことを、一度東大生として振り返って、東大生がもし知性が、最高学府だと、私もですね何回も会議で「東京大学は最高学府なんだからね、ちゃんとしたお手本を見せるような教育をしなさい」とか言われますけども、そういうような知性を持っていたらそこでこそ知性を働かせて、想像力を働かせて、そのスルッと感をもっともっと自分たちで追求して、これが私たちに押し被せられているんだったら、違う東大っていうものを考えてみたいっていうこのクリエイティビティ─に変えていくエネルギーがあれば、私は本当にこの小説っていうのが、東大生のためだというふうに思うわけなんです。

 

小島さん:

 いま深く頷いていらっしゃいましたが。

 

姫野さん:

 まあ、この授業でこれを使いますからというようなものではないので、入り込めないっていう方は別に読まなくて良い…

 

(会場笑い)

 

島田さん:

 挫折挫折っていうふうな描写であって、人の挫折にそんな上も下もないので、みんな苦しんで生きているわけだと思うんですけども、この小説が挫折したのが僕はボーイミーツガールの話だと読めると思っているんですけど、悲惨なボーイミーツガールなんですけど、挫折した東大生と、主体性のない女の子の恋愛小説ではないんです。恋愛において、挫折したっていう要素はそんなに、あの、そこでリアリティーを感じないっているのが瀬地山さんのお考えなんですけど、それはもう個々人で違うと思います。こんなツルツルピカピカの人は犯罪を犯す理由はないという人もいれば、ツルツルピカピカだからこそなんだろうと納得できる方もいらっしゃると思うんですけど、それはそれで良いんだと思うんですよ。それはもうどっちが正解ってことはないんですけど、このツルツルピカピカで生きているつばさ君っていう人も、やっぱりそういう何か欠損がありました。この生育(環境)で、いろんな複雑な感情の襞とかに思い至らないというのは、これは彼の挫折だと思って僕は読んでいるので、そんな文字通りのただツルツルピカピカな人間であるっているのでは実際なんじゃないかと。

 

小島さん:

 つばさ君のお兄さんがね、つばさ君がずっと引け目に感じてた、麻武から東大法学部行って司法試験受けてたお兄さんが、ある日突然北海道のおじいちゃんのところに行っちゃってね、田舎の教師になるって言って、お父さんびっくり、みたいなね、このつばさ君のお兄さんと、あとつばさ君の同級生だった山岸遥香ちゃんね、ある好きな作家がいるから私は東洋大の文学部に行くんだって決めてて、なんかつばさ君は遥香ちゃんの話聞いてて分かんないなあと思うことがあるんだけど、「あ、東洋大の人間の話を東大の人間が分からないはずがないからこれは分からないのではない」って言ってスルーしちゃうみたいなくだりがよく出てきましたけど、この2人の登場人物、つばさ君のお兄ちゃんと山岸遥香ちゃんというのは、とてもこの小説の中での救いというか、この2人がいるからこそツルツルピカピカ度が際立つというかですね、東大とか学力とか学歴とかとは違う価値がそこにあるんだということが体現されていたり、意図して設定されていたのかな、と思うんですけどそれはどうなんですか?

 

瀬地山教授:

 逆に言うと、なんかその岩見沢に行くお兄ちゃんの方は「政治的に正しい東大生」が出てきてる感じがするんですよ。

 

小島さん:

 「こうであってほしい」と、期待をね。どうですか?それは。

 

姫野さん:

 そうですね。

 

(会場笑い)

 

小島さん:

 そうであってほしい?

 

姫野さん:

 そうですね。

 

瀬地山教授:

 逆になんか対比がね、クリアすぎるんですよ。そんな感じがします。

 

(会場笑い)

 

姫野さん:

 それが小説の技法ですよ。

 

小島さん:

 ああいう岩見沢みたいなね、その、高学歴とかね、麻武、東大、司法試験とかね、そういうものをかなぐり捨てて人のために生きるエリートであってほしい、という理想を、あのお兄ちゃんが体現してるんですよ。そこに(理想を)託した。――と言っていいんですか?そういうおつもりでお書きになった?

 

姫野さん:

 まあ、あのお兄さんいいなあ、いいなあ(と思って)。

(会場笑い)

 皆さん、よくキャラが一人歩きするっていう表現があるじゃないですか。けど、それ、非科学的でしょ? その人が書いてはるのに、そのキャラが勝手に動くってそんなあ、って。でも、ほんまにそれ、最初に構成してしまうので、そうせざるを得なくなる感じはあるんです。だから、本当に(登場人物が)勝手に動くんで、そうするとだんだんだんだん、ああ、このお兄さんなかなかええなあ、とか、あ、遥香ちゃんが出てきたらホッとするわ、とか、もうこっちもそんな感じでいるので、「どうでしょう、それはこういう風に託されましたか?」とか言われると、ああ、どうだろうなあ、と。まあ、答えられないですね。

 

小島さん:

 でも、「こういうのいいなあ」って思ったっていうことは、こういう東大生がいてほしいなあ、っていう気持ちの表れでもあるわけですね?

 

姫野さん:

 大勢いはると思うんです。そんな、岩見沢に行く人が、やね、

 

瀬地山教授:

 いや、そんなにぎょうさんいるとは思いませんけど。あまりにそういう意味でも理想化されてる、という意味においても、そんなにぎょうさんいるとは思えないんですよね。

 

姫野さん:

 (つばさの兄のような)さわやかな人が、さわやかーな人も、東大にいはると。

 

小島さん:

 私、いるかいないか分かんないというか、小説の中の人物なので、つばさ君もお兄ちゃんもどっちもいない人なので、

 

瀬地山教授:

 いない、いない。

 

小島さん:

 それはいるかいないかは言ってもしょうがないなあ、という気もするんですけど、でもなんかね、お兄ちゃんに対してつばさ君が感じていたコンプレックスだとか、エノキ君がエノキ君のお兄ちゃんに対して感じているものだとか、あとつばさ君と遥香ちゃんの会話でつばさ君が「何言ってるのか分からないな」って感じとかね、ああいう対比じゃないですけれども、通じなさとか、あるいは実は通じてしまっているから遮断せざるを得ない感じとかって読んでてすごく面白かったです。自分の中にもそういうものが他者との間にあるからだし、すごくそこが、小説って面白いな、ってそういうところだと思うんですよね。それが事実かどうかとか、そういう人物が実際に存在し得るかどうかっていうことを検証するのももちろんそれはそれで面白いんですけれども、ああ、こういうことってあるよな、とか、人間の得体の知れなさみたいなね、割り切れなさみたいなものを味わう場として、この小説って豊かなものだな、と思って。この作品に限りませんけどね、でも今回も(そう思って)読みました。

 今回ちょっとたくさんの方がいらっしゃるので、質疑応答タイムというものを設けました。今からですね、挙手という形でね、

(姫野さんが薬を飲む)

 お薬飲んでください、お薬飲んでください、ぜひ。

(会場笑い)

 すいません、本当にね、よかった。2個目持ってらっしゃったんですね。

 

瀬地山教授:

 そんなにいじめるつもりないです、私。

 

(会場笑い)

 

小島さん:

 ここの場でね、思いつかれた方から挙手して、ご質問いただければ。できれば、こういう立場で、(例えば)学生です、とかね、メディアの方でしたらお名前をおっしゃるとかね、よろしくお願いします。

(最初に挙手をした女性を当てる)

 

質問者:

 あ、すいません、まさか最初になるとは思っていなかったので。

 東大の院生の者なんですけど、瀬地山先生に質問というかコメントで、私が東大に5年くらいいる限りでは、私(東大に入ったのは)院からではあるんですけど、見聞きしてる限りだと、何人か加害者の方を見聞きしている限りでは、劣等生に限らなくて、かなり何らかの賞ですとか、業績を出しているような優秀な方が、かなり深刻な被害とか加害を行ってしまっている事例をいくつか見ているんですけれども、やっぱりその、なかなかその、何て言うんですかね、恐らく学内でどういったハラスメントが起きていて、どういった加害者の方が、加害者に限らないというか、どういった状況の中で被害が生じてしまっているのか、みたいな調査自体が東大ではほとんど、10年前に1回ある限りでないので、なかなか、エビデンスがどうなっているのかというのはなかなかこう、出しづらいと思うんですけど、やっぱりその、一概に「東大生がこうだから」ということで小説の事例というか、小説に描かれているような世界を否定することはちょっと難しいんじゃないかっていう、いろんな例が結局ありうるんじゃないかということと。

 後は、私がやっぱり見聞きしている中で、瀬地山先生が言った、劣等生ということで、なかなか授業についていけない学生ということでしたけれども、加害者を擁護する論理としては、例えば麻武とかエスカレーター式の学校で、順風満帆に東大に来れた人じゃなくて、地方出身で地方の高校、進学校の出身で、家庭的にもそこまで裕福ではなくて、それで非常に学業に精を出して頑張った結果、そのストレスで加害に走ってしまったみたいなことが、加害者擁護の論理としてすごく使われやすい現状があるなあという風に周りを見ていて感じたので、ちょっとその点をどう考えるかということをちょっとお伺いしたいなあと思いました。

 

瀬地山教授:

 はい、答えていいでしょうかねえ?その他に質問ありますか?

 まず、すいません、理系の方ですか?

 

質問者:

 文系です。

 

瀬地山教授:

 あ、文系ですか、はい。(通っているのは)駒場(キャンパス)ですか?

 

質問者:

 本郷(キャンパス)です。

 

瀬地山教授:

 本郷ですか、はい。えっと、すみません、本郷になるとちょっと管轄外というか、全学的な対応は何もできていません。それは本当に申し訳なく思っています。で、それから、特に大学院生になると、カバーが全くいってないというのが現状だと思います。で、それはおっしゃる通りです。なので、大学院生の周りでもそういうような課題がかなりあるのだとすると、最低限こちらができるのはハラスメント相談室を通じたコントロールしかないかな、という風に思っています。

 小説をどう読むか、とかいう話とは別に、私たちは現実に性暴力、性犯罪を根絶するということをやらなければいけないと思っていて、それは今おっしゃったようなさまざまな属性と関わったり関わらなかったりするのだろうと思いますし、性犯罪が起きる加害者の忖度を別にする必要はないんでしょうが、背景、バックグラウンドのようなものがそんなに単純であったりはしないと思うんですね、やっぱり。ただ、(性犯罪の原因を)まとめるとしたら、ある程度の蓄積がないと判断ができないようなものになってしまいますから、それをちゃんとやらないといけないんだろうということだと思います。お叱りの言葉として受け止めます。申し訳ございません。

 

小島さん:

 ありがとうございます。では、次の質問。

 

瀬地山教授:

 矢口先生が挙げてる。

 

小島さん:

 矢口先生、矢口先生・・・・・・。えっと、はい。お願いします。

 

矢口祐人教授(総合文化研究科):

 私も駒場で教えております、矢口と申します。小説の読み方ってほんといろいろあるんやな、って思って、えっと、恐らく文学研究をしている方がいらっしゃれば、何が正しくて何が正しくないかっていうのは、小説を読む方法としてはそれだけじゃないというところは当然あると思うので、学生さんで「ここが正しい、正しくない」っていう風に考えている方は、文学論を読んでみたらいいんじゃないかなって。私が・・・

(会場笑い、拍手)

 ただ私は文学者じゃないので、しかも私も20年以上この駒場で教えておりますので、どうしても当事者感覚で本を読んでしまうところがありまして、そうすると確かに「あれ、ここちょっと違うかな」とか「ここも違うな」というところはあると思うんですけど、ただ、大きなところの真実があると思うんですね。それは、5人の東大生が、集団レイプで逮捕されたと。有罪になったと。これは、紛れもない事実なわけです。このことは正しいわけですよね。これを忘れてはならないと思うんです。(『彼女は頭が悪いから』は)どうしてこういうことが起きたのかということを考えさせてくれる小説だと思うんですね。それ(事件の原因)は、学歴社会なんだろうか、あるいは問題は男女比なんだろうか、あるいはゆがんだサークル構造なのか、といういろんなヒントを与えてくれる小説なんじゃないかと思います。

 この(加害者の)5人が、この駒場キャンパスで学んだのは紛れもない事実なんですよ。東京大学で4年、5年いたのは事実なんですよ。で、東京大学はこういう学生が3万人中5人だからって開き直ることはできないんですよね。5人じゃだめだし、4人じゃだめだし、3人じゃだめだし、2人じゃだめだし、1人でもだめなんですよ。絶対にもう1人も生み出さないということを、学生と教職員に真剣に考えさせてくれる小説として私は受け止めてますね。これは日本においてもそうだと思うんですよ。1億2千万人の人口で、1人いてもだめなんですよ、これ。それを考えさせてくれる小説なんじゃないかなと思って私は読みました。ですから、三鷹寮うんぬんというのは確かに私も思いましたけど、本質じゃないんじゃないかな、という風に思います。

 で、当事者として私が最後に申し上げたいのは、私は教員ですから、すごく考えさせられたのは最後のシーンで、美咲の大学の先生が、彼女に最後に言葉を掛けてくれる。私はそういう教員であるのか、ということをすごく考えさせられました。われわれ東大の教員は、あれを読んで、当事者的に考えるのであれば、自分はそういう教員になれるんだろうか、そのためにわれわれ教員は何をしなきゃいけないのかな、という真剣な話し合いを、もっと大学の中でするべきだと思うんですね。で、瀬地山先生孤軍奮闘されてるわけですが、その瀬地山先生の努力されてることを、われわれ教員の間で真剣に話し合う機会ってあんまりないんですよね。そういうことをもっとしなさいよ、と言ってくれる小説かな、と思って拝読しました。以上です。

(会場拍手)

 

瀬地山教授:

 それもお叱りだと思って。いや、もちろん文学論として違うっていうのはよく分かりますが、(東大生の性犯罪を)ゼロにする、というのは、本当に私にとって、ここでジェンダー論をやってる以上最重要課題の一つ。あと東大の女子比率を上げること。これが私にとってのミッション、コミットメントなんですね。先程矢口先生が挙げられたもので言うと、私は最大の要因はやっぱ東大の女性比、性比の問題がこの背景に出てしまっているんじゃないかという風に、われわれができるとしたらそこの点かな、というのは強く思います。外国からの留学生の人たちがよく言うんですが、いわゆるインカレサークルを見て、”How stupid!”とかって言うんですよね。まだそんな馬鹿なことをやってるのか、というのが(外国人留学生の)感覚なんだと思います。この犯罪の構造にもそこがやはり作用してるように思うので、東大の女子学生比率の問題というのが非常に大きく、犯罪としては背景にあったんじゃないかな、という風に一つは思います、はい。そんな感じですかね。

 あ、で、で、当然ですがセクシュアル・コンセントの話はずっと講義ではやっていてですね、最低限のことなので、それぐらいはきちんと徹底したいといつも思っています。

 

小島さん:

 実は先日、東大でですね、恋愛相談のイベントが異常に盛り上がるという、異常に豪華なメンバーで恋愛相談が行われたんですね。國分功一郎さんとかね、例えば信田さよ子さんだとかもね、お呼びしてという、そんなイベントをされた清田(隆之)さまですね、桃山商事の清田さんも何と、会場にいらっしゃるということで、さっきちらっと手も挙げていらっしゃったので何かご質問があればぜひお願いします。

 

清田さん:

 僕は恋愛とかジェンダーをテーマにいろいろ文章を書く仕事をしているんですけど、個人的にこの小説を友達から薦められて読みまして、ただただひたすら一人の自分のこととして本当に落ち込む瞬間が多々あって、それはこの彼ら男性たちおよび、被害者バッシングをした人たちの発言とか心の動きとかそういうものと、まあ相似形の気持ちとか感情が自分の中にやっぱりあって、それがもういろんな瞬間に刺激をされて、中学生のときのこととか高校生のときのこと、いろんな瞬間をなんか思い出させられて、「うっ」ってなって、その気持ちがすごいエネルギーになっていろいろ書評を書かせてもらったりもしたんですけど、ちょっと東大という記号からは離れてしまうかもしれないですけど、男性、まあ男性女性関わらないかもしんないですが、例えばスポーツ、部活とかでちょっとプレイヤーとしてうまい子、ちやほやされる方に立った時とか、クラスで面白いとされる側に立った時とか、小さな集団の中でモテる側に立った時とか発言力がある側に立った時とかに感じる快楽のようなものとの距離の取り方っていうことが、(『彼女は頭が悪いから』を読んで)一番自分の中にテーマとして重くのしかかったわけですけど。

 質問になるんですけど、138ページのところで、姫野さんが「ミソジニーは徒弟制」というような表現を書かれていて、なぜかそこの一言がものすごく個人的に心に残ったというか衝撃を受けたところで、自分たちが、自分が何となく、なんにも意識せず空気のように吸い込んでたというか知らぬ間に醸成されていた感覚とか、ちょっと強者の側に立った時に感じる気持ちよさ、その気持ちよさをなんかもう十全に味わってみたい、とか、そういうような感覚を、徒弟制のように自分がいろんな周りの人から受け継いでいたのか、とか思わされたんですけど、姫野さんはなぜこの「徒弟制」という言葉を用いてそれを表現したのかというのがとても気になったので、そのことを質問したいなと思って今日来たんですが、ちょっと抽象的な質問で申し訳ないんですけど、いかがでしょうか?

 

姫野さん:

 今の質問は、なぜ徒弟制という言葉を、形容をしたかっていう質問ですか?

 

清田さん:

 そうですね、その徒弟制という言葉で表そうとしていたものがどういうものなのか、そういう言葉をなぜ選択したかっていうことがすごく気になっています、はい。

 

姫野さん:

 うーん、徒弟制だからです。

 (会場笑い)

 私も共学でずっと過ごしたので、容赦のない「顔コンテスト」みたいなのを男子にされるわけですよ。それにある時気付いて、ここ(138ページ)に書いてある通り、(美咲は)女子校育ちですけど女子校でもランク付けってあるんですよね。だけど、男子が女子を「かわいい」って判定するのは必ずしも、鼻が高いとか、髪がきれいだとかスタイルが良いってことじゃないんだけど、何かがあるんですよ。「それはこれです」っていう風に言い表せないものが。昔の徒弟制って親方が全然教えてくれなくて、何となく弟子は学ぶしかなくて、本当に男子が、この場合は男子が判定するものなんですけど、それは女子もやっぱり判定してるんですよね。だからそれ(判定基準)が何なのかっていうのが、うーん、「こうです」っていうのが言えないな、って割と小さい頃から思っていて、それで思い付いた形容ですね。

 

清田さん:

 ありがとうございます。なんかその、ほんと、言葉にし得ない、こうとしか言えないもの、でも自分たちはいろいろ自分の中に取り入れてしまったものが何なのかというのを改めて考えるきっかけになったな、と思って、それで心に引っ掛かったんだと思います。ありがとうございます。

 

姫野さん:

 こちらこそありがとうございます。

 

小島さん:

 ものすごい数が挙がってる。ものすごい数になってしまった。誰から当てればいいんだろう。じゃあ、姫野さんの目に入った人を当てましょう。

 

姫野さん:

 いや小島さんが決めてください…

 

小島さん:

 私ですか?じゃあ…(手を挙げたのが)ほぼ同時ですか?正面ピンクの方かネクタイの方。

 

島田さん:

 学生さんがいいかと

 

大澤さん:

 学生さんが…

 

小島さん:

 学生さんですか?学生さんだけ手を挙げてください、じゃあ。…ネクタイの人もピンクの人も違いましたね。じゃあ…

 

島田さん:

 あちらのベストの方…

 

小島さん:

 じゃあ、そちらの、ベストを着た方。

 

質問者:

 今日は本当にありがとうございました。

 僕は、沖縄からここに来て、東大の2年生をしてます。率直に読んだ感想としては、ああ、なんか覚えたての、そういう進学校の名前の人たちが、暴れ回ってる世界はこんなものなのかって思った一方で、でもやっぱり、瀬地山さんがおっしゃるように、結構細かいところ違うし、結構東大生の誰もが思っている小さい感情を、1千倍ぐらいに増幅させて、それをめっちゃまき散らしてる、みたいな。なので、すごい分かるところは分かるし激しいところは激しい。それを批判するつもりは全くなくて。

 一つ確実に自分の中でも分かったのが、僕は沖縄から来たんですけど、沖縄って東大に入るのが一番少なくて、僕も母子家庭で、塾にも行かんで、マジで1人で勉強してて、相当挫折はしたし、そこを主観だから挫折してないって言われるのはすごいしゃくなんですけど、そういうのも置いといて、確かに僕は東大を目指してて、高校にいる時にさっきあちらの方おっしゃってたんですけど、すごいいろんな授業でちやほやされてたんですよ。合格した時も、もういろんなところで声掛かって、学校にも横断幕掛かって。

(会場笑い)

 めっちゃちやほやされたんです。言ってみれば高校の時はめっちゃモテて、でも大学来たら当然、マジで何もないんです。「東大」って言っても「で?」みたいな。すごい切ないし、「ああ、そうか」と思って、もちろんそれまで彼女もいたことなかったし恋愛もしたことなかったので、初めて仲良くなった人とかに、じゃあどうやって扱ったらいいか分からなくて、すごくひどいこととかいっぱいして、1年くらい経つんですけど、めちゃくちゃ悪かったなって思うんですよ。当時、自分が。だから、(加害者が持っていたのも)こういう感情なんじゃないかな、って実は思って。

 これ、東大生の権威を振りかざしてるみたいな感じの書き方で、みんなそれに執着しがちだけど、実はそうじゃなくて、東大にいくために一生懸命頑張ってここまで来て、それをみんなに評価されて自分もうれしいのに、本当は女の人がどんなこと考えてるかも分からないし彼女もいたことないし親は「彼女いるの?」って聞いてくるし。

(会場笑い)

 そんな中で、「ちょっとぐらい女の人と関わった方が良いよね」って思ってるから、自分がみんなに自慢できるのは東大しかないな、って思ってやってるっていうのが本音だし、だからそこは、「俺は東大だ」って言って威張ってるんじゃなくて、実は彼女もいたことないし、男子校だし、女の子との絡みもないし親も心配するし、僕もゲイだと思われてたんですけど。

(会場笑い)

 その中で、女の子と関わる機会がはたちにもなってもない、ヤバいな、って思うから手を出す、っていうのはすごい分かるし、自分の中でも(彼女がいない)本当の理由は、東大だからっていうよりも、東大に行くために頑張って異性経験がなかったからなんじゃないかな、って思ったりするんですよ。

 なので、まあ質問でも何でもないんですけど、そういう話も、今度(姫野さんに)小説で書いてくれたらうれしいな、って。

(会場笑い)

 以上です。

(会場拍手)

 

姫野さん:

 (私の作品の中には)そういう風な話もあるんですよ。

 また別の機会に読んでください。以上です。

 

小島さん:

 えーっと、じゃあ、時間にはなってるんですけど、じゃあ、あと、あとお一人。あとお一人?はい。

 

瀬地山教授:

 女性…

 

小島さん:

 女性の学生の方がいいですか?

 

瀬地山教授:

 女子学生ですね

 

小島さん:

 ずっと手を挙げてる人。手が一番血の気がなくなってる人。

 

瀬地山教授:

 東大の女子学生、東大の女子学生で。

 

小島さん:

 えーっと、どなたですか?

 

島田さん:

 壁際の方…

 

小島さん:

 壁際の方、はい。

 

質問者:

 お話ありがとうございました。東大の3年生で、先程紹介していただいた恋愛相談の企画をやっていた者なんですけど、それをやろうと思ったのがまさに、この本(がきっかけ)というか、あの事件があって、もうちょっと考えた方が良いんじゃないかっていうことを思って、特に「加害と被害」ということをテーマにして今回はやって。

 私がこれを読んで思ったことなんですけど、いろいろ細かいところが目に付くっていうのは、かなりリアリティーを一定程度感じるから逆に、小さな差異が気に掛かるというか、そういう風に思っていて。恋愛に限らず、何て言うんですかね、これ(『彼女は頭が悪いから』)の最後の方に東大卒の弁護士が少しだけ出てくるところがあるじゃないですか、裁判のところで。それを読んで私が思ったのは、東大生っていう、学生だったら、こういう言い方は良くないかもしれませんがまだ良いと思うんですけど、そういう人たちが、特に学生の間に事件も起こさないで、職業に就いて、弁護士だったりとか医者だったりとかっていう風に、偉い職業に就いて、そういう人たちが、ある意味弱者、患者さんであったりとか、弁護士であったら自分のクライアントに対して、そういう(東大生の頃のままの)価値観を持ったまま接するっていうことがものすごく問題だと思っていて、それに対して、大学の教育っていうのが、恋愛のこと、性的同意とかのことを教えるのはもちろんなんだけれども、もう少し包括的に、何か倫理的なことをできないかな、っていう風に考えてたものですが、何かアイディアがあったら教えてほしいな、っていう風に思います。

(会場拍手)

 

小島さん:

 えー、姫野さんにじゃあ、お答えいただきたいです。

 林先生と瀬地山さんに聞いてくれ、と。林さんと瀬地山先生に答えてほしい?

 

瀬地山教授:

 倫理、とおっしゃいました。性的自己決定権とか、セクシュアル・コンセントってのは、もちろん倫理なんですけど、手続きなんですね。基本的に、”If it’s not Yes, it’s No.”っていう、非常にシンプルな原理に基づいた、手続きだと思っています。その最低限の手続きを、最低限共有するっていうことができていない、というのが、今回の犯罪だと思っていて、それをどうやったら…。私もできる限りのことをしようと思っていますが、最低限の手続きについて合意される(ことが必要だという)ことを発信し続けるつもりです。

 

林教授:

 どうしたらいいかというのは、いろんなことが考えられると思います。で、問題は、まず構造とか制度として、先程瀬地山先生がおっしゃったように、矢口先生もおっしゃったように、男女比が非常にゆがんでいるからこういう問題が起こるわけですけど、じゃあそれに対して私たちがソフト面でね、何かできるかというご質問だと思うんです。これは私の意見ですけど、東大はですね、部局っていうのがあって、私は情報学環っていう本郷の大学院部局ですから、他部局のことをどうこう言うことは完全なタブーなんですね。一つ一つの部局っていうのは一つの王国ですから。なので、こんなことを言うとすごく怒られることを承知で申し上げますと、やはり、東大でやっぱり1年生、2年生っていうところで、教養学部というのがありまして、東大の学生は全員がそれを通って専門に分かれるわけですから、その1年生2年生で、少なくとも教養という言葉でくくるその課程では、やはりジェンダー教育を、必須にするべきじゃないかという風に思っていますので、ですから、瀬地山先生のような先生が、何人もいて、東大の学生さんが、男性のイメージ女性のイメージあるいはセクシュアリティーとか体の問題、そしてそれをどういう風に表現するか、そして社会でどういうインタラクションを持っていくのか、という。

 この話は、それほど簡単じゃないんですよね。男女っていうのはすごく当たり前に考えているけれど、これは瀬地山先生が一番ご存じだと思うんです、ご専門で私なんかが言うことではないんですが、(男女という)最も当たり前のことを疑って知的な営為を体現していく、難しい研究なわけです。その一部は、やはり教養の一部として、私たちみんなで学んでいくべきで、学生だけではなくて教員や、あるいは事務員みんなでそういう姿勢を作っていくっていうことが重要なんじゃないかな、と思います。それは私、いろんなところで言ってはいますけど、少数意見なので、ぜひですね、皆さんがこういうことを合意して、何て言うんですかね、ムーブメントになるといいな、って思っています。

 

瀬地山教授:

 一言だけいいですか。教養の側、上は総合文化研究科ですね、教養の側に責任がある、というのはおっしゃる通りで、私も、

 

林教授:

 責任があるって・・・

 

瀬地山教授:

 いや、できるとしたら教養学部がやらなきゃいけない、っていうか仕組みとしてそうなっていて、私はまず、仕組みとしてジェンダー論が理系に開かれている、文理問わずに理系に開かれてジェンダー論をやっていて。もし添えるとすれば、500人講義をして、感想の中で「この講義は必修にすべきだ」というのを毎年、言ってくる人たちがいます。その程度に基礎的な知識が欠落してる、というのを(受講者の学生が)言ってきているので、そういう需要がある、間違いなくある、というのは思っています。でも、500人の採点は一月かかるので、これ以上増やされても私の能力の限界をちょっと超えています、はい。すいません。

 

小島さん:

 はい、たくさんね、感想をいただいたんですが、もうね、時間となりましたので今日はここまでになりますが。今日ね、あんまり話題にならなくて、時間の限りもあったんですけど、清田さんがちょっとおっしゃいましたけど、すごくこの小説は私読んでても、学歴っていう記号のね、読み方もできるけどもう一つの、「女という見た目」っていうところでいうと、まさに徒弟制の話でね、かわいい子とかわいくない子っていうのをどう読み解くか、とか、あとさっきちらっと姫野さんがおっしゃってた「女が女に課す見た目の呪い」みたいなのがあって、女の人がどんなように消費されていくのか、そこに見た目というのはどのように関わってるのか、そのしんどさも描かれていて、そっちの文脈で、もう一回これぐらいのシンポジウムができるんじゃないかと思うくらい、本当にいろんな読み方のできる小説だと思いました。ぜひ今日のことをですね、皆さん周りにね、感想なんかをシェアしていただいて、この本をね、いま6刷りまで来ているそうですけど、より広くいろんな方にいろんな読まれ方をするようにですね、頑張ってできるだけシェアしていただきたいと思います。

 今日は遅くまでありがとうございました。

(会場拍手)

 

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