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2015年11月25日

「東大生×文京区民で解決できること」公共哲学カフェin本郷で町の問題を考える

11月6日(金)に、東大生と文京区民による対話イベント「公共哲学カフェin本郷」が開催された。日本初の「公共学」の博士号を取られた宮﨑文彦さんをファシリテーター(司会役)として迎え、25名ほど集まった東大生と区民が5、6人の小グループに分かれて大学と地域の関わりについて話し合った。

 

 よく話題に上ったのは、文京区の空き家問題・町内会の人不足、昔ながらの銭湯の廃業、また大学と文京区民のコミュニケーションがないことなどだった。参加者の中には学内や文京区でNPO活動を行っている方もおり、それぞれに求める点や解決策が活発に話し合われた。

 

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「公共について考える」

 今回テーマになったのは、「東大生と文京区民とはどう関われば良いのか」という点と、文京区の「公共」のあり方について。しかし「公共」とは何だろうか。「公共」と聞くと、まず「公の場」や”public”という言葉が思い浮かぶ。だが”public”(公)の対義語は”private”(私)であって、「公」=「公共」かというとしっくり来ない。さらに公/私の違いもどこから生まれるのだろう。宮崎先生はこの点から話を始めた。

 

 「もし、アパートで隣の部屋から大きな音がして困っているなら、大家さんや不動産屋に相談に行く。しかし、それが誰かを殴っている音だったり悲鳴だったりした場合、相談先は警察になるのではないか」

 宮崎先生はこのような例を出して、「お互いに顔が見える関係(アパートの不動産屋)か、顔の見えない関係(警察)か」で、ひとまず「私」と「公」の区別をした。

 

 

「東大と文京区の問題は何か」

宮崎先生の整理の後、グループごとに身近に感じる「文京区の」問題を思いつく限り書き出す時間が取られた。ここで出たのは上記以外にも「家賃が高い、公園で子供が一人で遊んでいる、通勤ラッシュが辛い、東大の前の道が狭い、災害時の対策は十分なのか」など実に様々。問題について参加者同士で質問したり、触発されて新しい問題を書いたりと、終始楽しげな雰囲気で作業は進んだ。

 

 その後、約20分の休憩。お菓子やお茶が配られる中、他の机を訪れて別グループで出た問題についての質問や相談が交わされた。

 

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「東大生×文京区民で解決できること」

休憩後は、先程のアパートの例のように、「その問題は誰が解決できるのか」という整理が行われた。例えば「道が狭い・東大の施設利用料が高い」などは文京区や東大の協力で改善しうるが、「少子高齢化・災害時の対応」は国レベルの対策が必要だ。また、「通勤ラッシュが辛い・駅から大学までもっと近い方がいい」などは個人での取り組みが可能なのではと相談された。

 

面白いのは、このような整理をしてゆくと東大生や文京区民が取り組める問題が自然と明らかになることだった。つまり「大学内の情報が知りたい・学生や区民と関われる機会が欲しい」など、「個人レベル」と「自治体レベル」の間に位置する問題群である。

 

ちょうど記者のいたグループでも、東大近くで勤務する20代後半女性の方から「学内の研究会や映画上映会などがあれば行きたいが、何があるのか分からない」という意見があった。この時、記者は一般からも参加可能な講演会はすぐに思い付いたし、上映会などは東京大学新聞社でも何度か実施している。また、活動成果を興味のある一般の方に伝え、良い関係を築くことは大学側にとっても重要なことである。ただ知らないだけで、自分たちで行動できる「問題」も実は多いのではないか。そう思えたことが記者自身には印象的だった。

 

最後には各グループで3分ずつほどの全体発表が行われたが、そこでもこのような「東大生・文京区民レベル」の地域問題は多く共有された。中には、「空き家を利用して気軽に立ち寄れる居場所を作りたい」など、今回の参加者でも実行できそうな問題解決のアイデアも発表された。参加者の中には似たような問題を感じていた人も多く、頷く顔や拍手の続く中、各グループの発表は時間ぎりぎりまで賑わっていた。

 

「自分たちの問題を手放さないこと」

 締めの宮崎先生のお話の中で言われたのは、「今回のように、まず自分たちの問題を見つけ、それを誰がどう解決するべきなのかを考える」ことこそ公共哲学の目指すものであり、また本来あるべき政治ではないかということだった。最初の話で言えば、やはりすぐに「公共」=「公」なのではなく、その「問題」が「公/私」のどの部分によって担われるべきなのかを考えることが「公共」を考える上で重要なのだ。

 

現代社会は複雑であり、問題も解決主体も様々ではあるが、まず自分(たち)の問題が何であり、それが誰によって解決されるべきなのかを考えることを止めてはならない。この場に参加していて、記者はその感覚を強く持つことができた。しかし「今の日本で、このプロセスはどこまで生きているのか」ということも宮崎先生は問うていた。自分たちも何とはなしに、問題を「公共機関」や「誰か」が解決してくれるものと思っていないだろうか。区民の方々と終始楽しく話すことのできた2時間だったが、同時に考えさせられる問いを残した時間でもあった。

 

(文責:西崎博道)

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